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バジリスクの魔法の歌/パトリシア・A・マキリップ

バジリスクの魔法の歌
パトリシア・A・マキリップ

My評価★★★☆

訳:原島文世
創元推理文庫(2010年4月)
ISBN978-4-488-52011-3 【Amazon
原題:Song for the Basilisk(1998)


バジリスクの魔法の歌ベリロンの都を、数世紀にわたって平和に統治していたトルマリン家。
ペリオール家の党首アリオッソの内乱によって、トルマリン宮は焼討ち、公家の血は根絶やしされた・・・はずだった。しかし幼子グリフィン・トルマリンが唯一人生き残った。
グリフィン・トルマリンはルック・カラドリウスと名を変え、辺境にある吟遊詩人の学校に預けられる。都での辛い記憶は思い出すことのないよう封じ込められた。

37年後、いまや息子を持つ父親となったカラドリウスの元に、グリフィン・トルマリンを名乗る青年が現れたことから、カラドリウスの記憶が戻る。彼は唯一人、復讐心を胸に都へと向かう。
都ではトルマリンの残党の青年たちが、大公を倒すべく画策していた。また、来たるアリオッソの誕生日にオペラが上演されることになり、音楽学院のダルセット教授たちは指導や準備にてんてこ舞い。
カラドリウスはペリオール宮に潜入するが、彼の正体を知らないはずの公女ルナの不可解な行動に不安を抱く。
やがて、舞台の幕が切って落とされた・・・。

********************

統治者一族の親兄弟を失い、たった一人生き残った子ども。その子どもが成長して記憶を取り戻し、仇討ちをしようとする復讐譚。と言えばありきたりなストーリーと思われるだろうが、そこはマキリップのこと、一筋縄ではいかない。
結末は、復讐譚というのとはだいぶ違う。結末はわからなくもないし、これはこれでいいのかもしれないけれど、なんかシックリこなかった。これでは、主役が誰なのかハッキリしないよなあ。
伏線らしきところがあるんだけど、これって伏線になっていないような・・・。また、ダミエットやジュリアたちの狂言回しも、<北>も活かされていないように思う。
全体的に言って、題材は好みだし面白くないわけではないんだけど、統合性に欠けると思う。このページ数にしては詰め込み過ぎじゃないのかな。この内容だったら、もっと長くてもよかったんじゃ。

訳に関して言えば、ダルセット(教授)をダミエット(ペリオール大公の第二姫。ルナの妹)と取り違えた校正ミスはともかくとしても、訳がこなれていないなあと思うところがあり、状況がわかりにくかった。私はどうもこの訳者と相性があまりよくないみたい。
ううーん、マキッリプなだけに期待が大きかったから、つい辛口になってしまう。(2010/4/30)

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白さと想像力 アメリカ文学の黒人像/トニ・モリスン

白さと想像力 アメリカ文学の黒人像
トニ・モリスン

My評価★★★★★

訳:大社淑子
朝日選書(1994年5月)
ISBN4-02-259599-X 【Amazon
原題:Playing in the Dark(1992)


トニ・モリスン(1931年生まれ)は、アフリカ系アメリカ人の女性作家。1988年にピュリツァー賞、1993年にノーベル文学賞を受賞。
本書はハーバード大学での3回にわたるウィリアム・E・マッシー・シニア記念講演中に提起された疑問と、モリスンが大学で担当した講義の資料が元になっているという。
モリスンは、ここでは説明する必要のない理由から、ごく最近まで、そして、作者がどの人種の人間であるかには関わりなく、事実上すべてのアメリカ小説の読者は白人として位置づけられてきた。(p15)という。
私はアメリカ文学の全てを知っているわけではないが、19世紀から20世紀半ばまでに書かれアメリカを代表するといわれ翻訳された小説は、確かに白人による白人のための文学であることは否めないと思う。問題はそうしたアメリカ文学の中でアフリカニストがどう描かれてきたか、人々にどう影響しているのかという点にある。

作者は、アメリカ文学の批評上において、アフリカニストまたはアフリカニズムについては空白になっているという。その理由の一つに、人種問題に対する歴史的な沈黙と回避の傾向や、人種論争への気後れを挙げている。さらにここが重要なのだが、
また、人種を無視するのは、優雅で寛大とさえ言えるリベラルな態度であり習慣だということになっているため、さらに複雑になってくる。人種に注目すれば、すでに悪評高い差異を認めることになるからだ。沈黙したままむりやり目に入っていないことにしてしまえば、黒人総体を支配的な文化の共同体のなかへ影もなくひっそりと組みこむことができる。この論理によって、生まれのよい人の本能は、見ないことにしよう(本文では傍点)と主張して、おとなの議論を妨げる。(p30)
これはアメリカや人種問題に限らず、例えば日本でも、身障者に対してこうした態度が見受けられることは少なくない。

アメリカの批評界において、アフリカニストの存在と影響についての文学論に、このまったくおざなりの空白が見られるようになったもう一つの理由は、人種差別主義を、犠牲者に対する結果という視点から考えようとするパターンである。そうしたパターンでは、つねに一方的に人種差別主義の政策や態度を、その対象とされるものに与える衝撃の視点から定義しようとする。(p31~32)
つまり被害者へのインパクトという視点で、人種問題が判断されるということだろう。
作者は、加害者である白人にとって、人種的偏見をすることにどのような意味があるのか、といった分析及び調査が欠如しているという。人種的偏見をすることによる白人のメリットは何なのか、ということだろう。そこから、なぜ人間が人間を差別するのか、という理由が見えてくるのではないかと思うのだが・・・。

私たちは、一般的に清純無垢や純粋といえば「白」を、闇や悪といえば「黒」を連想する。それはなぜか?白と黒という色自体には主体性はなく、あるものに付随した場合においてイメージを喚起させるという。色から想像されるイメージは、何を意味して、人々の意識にどう影響しているのか。
そして、アメリカ文学におけるアフリカ系アメリカ人の役割と意味とは何か。例として、アメリカを代表する作家の作品、特にヘミングウェイが挙げられている。私にはヘミングウェイの描く主人公などは、「これこそがアメリカ人だ」と言っているかのようで、良くも悪くもとてもアメリカ人らしいと感じる。しかし、この場合「アメリカ人」という言葉にアフリカニストは含まれていないという。
ヘミングウェイの考えるアメリカ人にアフリカニストは含まれないが、ある役割を担っているため、彼の小説はアフリカニストの存在に影響されているという。モリスンは、白人らしさをより表す場合、黒人の存在は欠かせないとし、その起因するところを述べている。

作者が言いたいのは、作家とその作品を非難することではない。決して反人種差別主義者の文学を唱えているのでもない。これまで批評家が語ってこなかった、新たな視点の導入である。
訳者があとがきでまとめているように、アメリカの総人口の16%を占める黒人が、アメリカ文学・アメリカ文化に影響を与えていないと考える方が不自然ではないだろうか。アフリカニスト及びアフリカニズムの影響を考えてこなかった批評こそが不自然だろう。

モリスンはアメリカ文学の批評界においてこれまで試みられなかったという、アメリカ文学におけるアフリカニズムという視点を提起しており、明快でわかりやすく解いている。しかし、それは建国以来、アメリカという国のアイデンティティに関わる問題でもあるため、実に根が深い。作者は文学上でのアフリカニストの存在に限定しているが、文学やアフリカ人という枠を超え、異人種間だけではなく同人種間にもよる差別問題への視点を提起していると思う。
大切なのは、当たり前に感じて疑問を抱かずにいたことを、新たな視点で見渡すこと。それこそが私にとって本書の最大の魅力だった。(2007/12/5)

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大聖堂 果てしなき世界/ケン・フォレット

大聖堂 果てしなき世界
ケン・フォレット

My評価★★★★

訳:戸田裕之,解説(下巻):児玉清
ソフトバンク文庫(2009年3月,上中下巻)
上巻:ISBN978-4-7973-4623-7 【Amazon
中巻:ISBN978-4-7973-4624-4 【Amazon
下巻:ISBN978-4-7973-4625-1 【Amazon


果てしなき世界(1)果てしなき世界(2)果てしなき世界(3)
1327年、イングランド。騎士の息子マーティンと弟ラルフ、極貧の一家の娘グウェンダ、裕福な羊毛商人の娘カリスたちが知り合う。
マーティン兄弟の父サー・ジェラルドは、ギングズブリッジ大聖堂を建立したジャック・ビルダーの息子の末裔だった(ジャック・ビルダーはレディ・アリエナと結婚してシャーリング伯となった)。
マーティンとラルフ、カリス、グウェンダは森で、1人の騎士が兵士に襲われている現場を目撃。マーティンは、騎士トマスと秘密を分かち合うことになってしまった。その秘密は、退位させられたニドワード2世に関わりがあるらしい。トマスの秘密とは?そのトマスはギングズブリッジ修道院で、修道生活を送る。

サー・ジェラルドが破産したため、マーティンは大工の徒弟に、ラルフは騎士見習いになる。マーティンは才能豊であるがため、嫉妬した親方エルフリックに疎んじられ、破門されてしまう。彼にはいまや恋人となったカリスがいた。
カリスは、聖堂区ギルドのオルダーマンで毛商のエドマンドの娘。彼女の一族は、ジャック・ビルダーの継父トム・ビルダーの子孫。

カリスと父親のエドマンドは、衰退していく羊毛市場を再生しようとするが、修道院長アントニーが旧態的で保守的なため、何ら有効な手を打てないでいた。修道院長アントニーが亡くなり、カリスの従兄ゴドウィンが新修道院長に就任する。ゴドウィンは改革派の先鋒とみなされていたが、フタを開けてみるとガチガチの保守派だった。
カリスはキングズブリッジを自由都市にしようと奔走するが、利権を手放したくないゴドウィンの策略によって魔女裁判にかけられる!彼女が生き延びるためには、修道女となる以外に術はない。しかし、それはマーティンとの別れでもある。失意のマーティンはキングズブリッジを去り、フィレンツェへ。
キングズブリッジはゴドウィンと、彼の手先として働く副院長フィルモン(グウェンダの兄)の手中に。

一方、善悪の区別のないラルフは、非道な罪を犯しながらも、その都度窮地を逃れて出世してゆく。
土地持ちの農夫の息子ウルフリックは、両親を亡くして土地をも失ってしまう。ウルフリックはラルフの恨みを買っていた。グウェンダとウルフリックは夫婦になるが、ラルフに辛酸を舐めさせられ、2人の生活は苦難と忍耐の連続だった。

歳月が経ち、マーティンがペストに襲われたフィレンツェから戻ってきた。しかしギングズブリッジもペストに襲われ、町は壊滅状態に陥る。カリスは人々を救おうと施療に専念するが、ゴドウィンは・・・。
やがてカリスは自由都市の認可と、倒壊の危険性のある大聖堂の塔の建て直しに着手。カリスとマーティンはキングズブリッジの復興を賭けて、イングランド一の塔を建立しようとする。

********************

前作『大聖堂』から18年を経て、刊行された続編。続編だが、どちらから読んでも問題ない。舞台は前作から約200年後、1327年~1361年のキングズブリッジ。5人の男女の34年間を追う波乱万丈のエンターテインメント。
大雑把に言えば、マーティンとカリスVSゴドウィンとフィルキン、グウェンダとウルフリックVSラルフという感じ。
マーティンとカリスは改革派のゴドウィンが修道院長に叙任したことで期待を抱くが、実はゴドウィンはとんでもなく保守的で権力志向だった。ま、こういうタイプはいなくもないな。権力にしがみつこうとするから視野が狭くなるのか、視野が狭いから権力にしがみつくのか。
ともあれゴドウィンが修道院長で、伏兵のフィルキンがいる限り、カリスたちの計画は実現しない。カリスとマーティンは理想を抱いて無私で動いているのだが、結果的には権力闘争なわけだ。

果たして前作を超えられるのか!?
結論を言えば、面白いんだけれども、前作ほどではないなあ。
いまどき珍しく善悪ハッキリしているので、それが単純に感じられてもの足りなかった。中巻は悪役の独断場で善役が苦難を強いられるのだが、イマイチ求心力が感じられず、読むのがダラけてしまった。
グウェンダとラルフの決着方法も、私には納得できなかった。この物語で大切なのは、つまるところ人間性ではないのかな。なのにあの決着方法はないんじゃない。デビュー作の『針の眼』もだったけれど、ケン・フォレットには確たる思想がないのでは。だから安易な決着に走ってしまうんじゃないかな。

私が面白いと思った点は、「自由都市」請願について。教会に支配されているカリスたちは、経済を発展させるためギルドが裁量権を得ようと、王による支配を望む。この点が興味深かった。
中世の王政というものを考えたとき、一般的には王による専制政治というイメージがあると思う。しかし、王政はなぜ続いたのか。支配される側は、王による支配を望んでいなかったのか、という疑問が起こる。
この物語でカリスたちは、要するに自分たちに利のある権力(組織)に鞍替えしたわけだ。つまり、王政は一方的に押し付けられるものではないという意味になる。本書は物語であり、都市部と農村では状況は異なると思うが、王政はなぜ続いたのか、に対する一つの答えではないかと思う。(2010/4/27)

大聖堂

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