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ボストン夫人のパッチワーク/ダイアナ・ボストン

ボストン夫人のパッチワーク
ダイアナ・ボストン

My評価★★★★★

訳:林望
平凡社(2000年10月)
ISBN4-582-82949-X 【Amazon
原題:The Patchworks of Lucy Boston(1995)


ダイアナ・ボストンは、イギリスの児童文学作家ルーシー・マリア・ボストン(1892-1990)が遺したノルマン様式の古いマナーハウスの管理兼案内者。ボストン夫人の息子で故ピーター・ボストンの妻。
ボストン夫人が製作し、遺したり家族や友人に贈ったパッチワークを、年代ごとに整理して説明文と写真を添えたのが本書。
ボストン夫人のマナーハウスは、『グリーン・ノウ物語』シリーズの舞台となっている。
パッチワークは『グリーン・ノウの煙突』の大切な道具立てになっていて、これがどのようなものなのかと思っていた。そのとき掲示板で教えてもらったのがこの本。

正直に言ってパッチワークに興味はなく、マナーハウス内部の写真が載っているかなあと思って手にした。だが、作品を見てビックリ!!
とても美しく、独創性が感じられて素晴らしい。布でこれほど芸術性の高い作品を作ることができるなんて思ってもみなかった。まさにテキスタイル・アート。芸術だ。どんな人が見ても感嘆するに違いない。

年代順に並べられていることで作風が進化しているのがわかり、ボストン夫人の探究心がうかがえる。最も盛んに製作したのは80歳代のころだそうだが、そんな高齢で作ったとは思えないほど。いや、高齢だからこそ芸術性が昇華して、それを表現力が増したのだろう。

食堂のカーテンやソファーカバーにしている六角形のパッチワークは、周囲の壁と調和した色彩。これが『グリーン・ノウの煙突』で語られる物みたい。建物に飾られているのを見ると、石造りの建物で暮らすのには、パッチワークが必需品だということがよくわかる。
暗色地に月と太陽とたくさんの星を配した『ハイ・マジック・パッチワーク』は、オリジナリティーが溢れている。グリーン・ノウ物語の作家らしいマジカルな作品。
『十字架づくしのバッチーク』も美しい。ベッドに掛けられている写真を見ると、部屋の様子とあいまって中世的な雰囲気を醸し出している。
パープシコード奏者の友人のために作られた『パッサカリアのパッチワーク』は、主題(パッサカリアの低音)と変奏曲、つまり音楽を表現したものだそうで、動きのある作品になっている。
私が好きなのは、白とグレー系と黒系を巧妙に配した『キーボート・パッチワーク』。落ち着いた感じがいいです。

ボストン夫人のパッチワークは、色彩と生地の柄の活かし方に才があり、とても精緻に組み合わせていて、まるで万華鏡のよう。実際、『万華鏡のパッチワーク』という作品もある。
『コリン・ティルニーの壁掛け』などは、布で万華鏡を表現したと言っていいだろう。眺めていると目がクラクラしそう。

晩年に作られた『ロン・ルーコックの星座』は非常に美しく、ボストン夫人最後の完成作。ダブルベッド用のカバーという大きなもので、61センチや角の星30個を、テーブルに広げて布に縫い付けたのだそうだ。
視力の衰えと高齢のため、配置に多少のズレがあるが、そんなズレは問題にならない。なにしろ90歳時に作ったというのだから、もう驚嘆するしかないだろう。
未完製作となったが、『イスラム風タイルのパッチワーク』は、もはやパッチワークという域を完全に超えていると思う。

パッチワークというと、男性にとっては興味がないと思う。実際、私も興味はなかった。
しかし、本書で作品を目の当たりにすると、たんに女性の趣味という領域に留まるものでないことが理解できた。パッチワークがどのような芸術性を秘めているのか、手仕事がどれほど素晴らしい物を創りだすことができるか。パッチワークを見直しました。
とともに、作家としか知らなかったボストン夫人の芸術的才能に驚かされ、感嘆しました。(2006/10/8)

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グリーン・ノウの川/ルーシー・M・ボストン

[グリーン・ノウ物語3]グリーン・ノウの川
L・M・ボストン

My評価★★★★

訳:亀井俊介
挿画:ピーター・ボストン
評論社(1970年7月)
ISBN4-566-01002-3 【Amazon
原題:THE RIVER AT GREEN KNOWE(1959)


長旅に出たオールドノウ夫人から、夏の間グリーン・ノウを借りた二人の老婦人。一人は、先史時代に恐竜などの巨大な動物だけでなく、巨大な人間もいたであろうことを研究しているビギン博士。食べることを楽しみにし、料理を作るのが大好きなミス・シビラ。

ピギン博士の思いつきによって難民の子どもたちが招かれ、夏をすごすことになります。やってきたのは、父親をロシア軍に殺されてポーランドから亡命したオスカーと、ビルマから脱出した中国人のピン。
ピギン博士の姪アイダを加えた子どもたちは、毎日カヌーを操り、水郷を探検して自分たちの地図を作ることにしました。
子どもたちは探検によって、親とはぐれた白鳥の子ども、誰にも見つけられない川の奥で生きる世捨て人、ねずみのようになってしまったオスカー、月の魔法によって現れる狩人たち。そして巨人テラックとの出会います。
時々ちょっぴりケンカしながらも、あるときは楽しく、あるときは不思議に満ちた時間を過ごしました。でも、大人たちの反応は     

********************

シリーズ3作目。今回はオールドノウ夫人は登場しませんが、その代わりにビギン博士とミス・シビラという二人の婦人が登場します。
ビギン博士は研究に忙しいため、ミス・シビラは食事の時間を守ること以外、子どもたちに干渉しません。そのため子どもたちは自由に過ごすのです。カヌーを操って川を探検する子どもたち、それだけでワクワクしちゃいます。
現実にはどうなのか知りませんが、このような物語の成立する環境がある、というところがイギリスらしいなと思います。
1950年代の日本で、子どもたちが川を冒険する物語が成立するかといえば、地形の違いもあるでしょうが、そもそもそんな発想がないんじゃないのかなあ。私が知らないだけで、そうした物語があるのかもしれないけれど。

子どもたちに屈託がないかというと、そうではないんですよねえ。
オスカーとピンは祖国を追われた難民で、辛い過去を背負っているのです。彼らは自分たちが難民であることを強く意識しており、同じ難民を気遣います。
また、社会での居場所を失った世捨て人は難民といえるかもしれません。巨人は難民といえるでしょう。巨人テラックは社会と関わりながら、自分の居場所を築こうとしているのではないでしょうか。
子どもたち同士、必ずしも意志の疎通ができるわけではなく、ときに噛み合わなるんです。でも、どちらが正しいとか悪いとかいうのではなく、自分とは考え方が違うということを理解しているからではないでしょうか。
根底には「個人」という意識があるのだと思います。個々人別々の考えをもっていて、その上で信頼関係を築いている。
こうした考え方はとても西欧的で、日本人の不得意とするところではないでしょうか。日本の小説ではあまり、というよりも、ほとんど見られないですから(これも私が知らないだけかも)。

ビギン博士はその勇ましさで子どもたちの尊敬の念を勝ち取るのですが、そのビギン博士でさえ目にしているものを理解できず、子どもたちから「おとなってどうしようもないものなのよ」と思われてしまいます。
博士のようなことは現実に私たち大人が陥りやすく、知識や経験からすでに結論が導き出されていて、それに沿わなければ真実であっても目が向かないんですよね。なかでも学者に顕著に見受けられます。

などと読んでいくと、とても現実的な面が見えてきて、そのことがこの作品をたんなる冒険物語以上のものにしているではないかと思うんです。(2008/1/31)

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グリーン・ノウの煙突/ルーシー・M・ボストン

[グリーン・ノウ物語2]グリーン・ノウの煙突
L・M・ボストン

My評価★★★★☆

訳:亀井俊介
挿画:ピーター・ボストン
評論社(1977年10月)
ISBN4-566-01001-5 【Amazon
原題:THE CHIMNEYS OF GREEN KNOWE(1958)


シリーズ2作目。トーリーは復活祭の休みを、おばあちゃんの住むグリーン・ノウで過ごします。でも大好きな絵がありませんし、子どもたちもいません。
グリーン・ノウは古い史跡なので法律で保存しなければならず、そのための修繕費を得るためでした。
おばあちゃんは、せめて宝石があったならと言います。宝石は18世紀後半の火事のときに、どこかへ消えてしまったのだそうです。トーリーは館を探索して、宝石を見つけ出すことにしました。

宝石の持ち主は、英国海軍にいたオールドノウ船長の妻マリア・オールドノウ。おばあちゃんはパッチワークをしながら、オールドノウ船長と妻マリア・オールドノウ、息子のセフトン、娘のスーザンについて話してくれました。
船長は立派な人でしたが、マリアは虚栄心が強く散財家で、子どもたちの教育には興味がなく、社交にかまけていました。セフトンは美しい子どもだけれど、わがままなドラ息子。そして、スーザンは生まれつき目が見えなかったのです。
乳母が過保護だったため、スーザンは何もさせてもらえませんでした。マリアも乳母も、スーザンには何もできないと決め付けていたのです。
父親の船長は、中南米で黒人の子どもジェイコブを奴隷商人から救いました。そしてスーザンの世話をさせるために、ジェイコブを連れ帰ります。
ジェイコブが来てから、スーザンはいろんなことを覚え、外で遊ぶことも出来て活発になりました。トーリーはそんなジェイコブとスーザンに出会います。

********************

子どものころに読んだことがあるのですが、内容をスッカリ忘れていました。でもジェイコブが登場してやっと思い出しました。そうだ、元気のいいジェイコブが好きだったんだ。セフトンは大っ嫌いでしたね。いまでも嫌いだな。
子どものころは、ある人物に対して好きか嫌いかの感情で読んでいたと思うけれど、いま読んでみると人物造型がシッカリしていることに気づかされました。結構シビアですねえ。
人物造型がシッカリしているからこそ、彼らの言動が理解できる。その上で善悪が判断される仕組みになっていると思います。

船長は、スーザンが自分でいろんなことを出来るようにしたいと考えています。でもマリアと乳母は、スーザンには何も出来っこないと決め付けています。さらには、スーザンには知性も感情もないかのように扱うのです。つまり全人格を否定しているということですね。これはもう最悪でしょう。目は見えずとも耳は聞こえているのだから。実際、聴覚からの情報量は意外に大きいのに。
現代人でもよく陥りがちなのですが、例えば言語障害のある人に対し、うまく喋れないからといって知的障害まであるかのように振舞う人がいます。これは注意したいことです。

マリアは妻としても母としても問題ありで、人は見た目だけではないという見本。なぜ船長が結婚したのか不思議でなりません。
そんなマリアとセフトンに、キャクストンという悪賢い召使が取り入っています。キャクストンにとって、マリアとセフトンのような物事を深く考えないタイプは操りやすいのでしょうね。
逆にマリアとセフトンにとっては、耳に痛いことを忠告してれる人より、自分たちをよいしょしてくれるキャクストンの言葉が心地良いのでしょう。それが物事を悪化させるのですが。

さて、作中で火事が起きるのですが、いったいなぜ火事になってしまったのか?宝石は誰がどうしたのか?スーザンは幸せになれるのか、トービーたちは戻ってくるのか?それらはトーリーならずとも気になるところ。
前作ではトービーたちがどうなったのかという辛い真実が明らかにされましたが、今作はパッピーエンド。
やっぱりスーザンには幸せになってもらわなくちゃね。ジェイコブにも。最後にはすべてが治まるところに治まって、平安が訪れるのです。
私はシリーズ中で、いちばん密度の濃い物語だと思います。(2006/9/4)

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