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手紙を書きたくなったら/木下綾乃

手紙を書きたくなったら
木下綾乃

My評価★★★

WAVE出版(2005年3月)
ISBN4-87290-215-7 【Amazon


女性イラストレーターのエッセイ集。イラストと写真多数。
著者は手紙愛好家で文具好き、切手蒐集家。敬愛する絵本作家ディック・ブルーナに会うため、手紙を出して連絡をとり、オランダのアトリエを訪ねたのだそう。
近しいのに珍しい人からの手紙や、アパートの仲間とのメモでのやり取りなど、手紙にまつわる思い出が語らています。またオリジナルの封筒、レターセットのコレクションや文具とその販売店、封かんやはんこ、手紙に添えるおまけなど工夫やアイディアがいろいろ。後半は、古切手の紹介と蒐集の話。

著者は、もらった相手が思い出に残るような手紙の工夫の仕方を紹介しているんです。
それ以前に文具好きなのだと思うけど。封筒を作ったりと工夫し、それを使って書く楽しみ、そして手紙をもらう喜び。作ったり書いたりすることを、本当に楽しんでいることが伝わってきました。
紙モノや文具、切手好きの私としては、こういう本は眺めているだけで愉しい。旅先からたまには手紙を、とまではいかなくても、葉書でも出してみようという気持ちになります。まあ、気持ちだけで終わってしまうのが常ですが・・・。

メールは確かに便利だけれど、後々まで残らないんですよね。もらった手紙や葉書を眺めていると、当時のことがいろいろ思い出されてくるのだけれど、電子メールにはそれがない。メールと手紙や葉書は、違うものなのだと思うのです。
郵便物や贈り物にちょっとしたオマケのような工夫をして、自分はもとより相手も楽しんでくれたら・・・。ちょっとした工夫というプラスアルファ、そんな遊び心にその人らしさを表われていて、もらった人との心理的距離を縮めるのではないでしょうか。
急いで書いたり送ろうとしてつい事務的になりがちだけれど、遊び心を忘れないでいたいものです。(2005/5/16)

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メトロポリス/テア・フォン・ハルボウ

メトロポリス
テア・フォン・ハルボウ

My評価★★

訳:前川道介
創元SF文庫(1988年12月)
ISBN4-488-55001-0 【Amazon
原題:METROPOLIS(1926)


七色の花火が夜空にヨシワラの文字を描き、サーチライトが煌き飛行機が発着を繰り返す機械都市メトロポリス。
都市の中心部には、五千万人都市を睥睨する<新バベルの塔>があり、地下鉄から人々が塔の工場へ吸い込まれ吐き出される。
人々は、塔の中枢にありメトロポリス機能させる<パーテル・ノステル・マシン>に仕える。これらすべてを、ヨー・フーレデルセンが支配し都市に君臨している。

ヨー・フーレデルセンの息子フレーダーは<息子たちのクラブ>で怠惰に暮らしていたが、ある日、父親の人間性を否定したやり方に疑問を抱く。塔を飛び出した彼は、人々をなんとかしたいと願う。
フレーダーを変えたのは、マリアという女性の出現によってだった。都市の地下深くには古い洞窟が縦横に張り巡らされており、そこでは機械とフーレデルセンに不満を抱く民衆が集っていた。民衆をなだめ、破壊と殺戮を回避して、自由になる機会を待つよう説得しているのがマリアだった。
フーレデルセンを憎むロートヴァングは、マリアを攫って彼女ソックリのロボットを作った。ロボットは民衆を扇動して、都市の崩壊に導く。

********************

フリッツ・ラング(1890-1976)による映画『メトロポリス』(1926,ドイツ)の原作。
巻末に、訳者による「映画『メトロポリス』について」が収録。少し長くなるが、本作を知る上で必要と思われるので紹介。
これによると、フリッツ・ラングはユダヤ系のオーストリア市民に生まれ、後に映画監督となる。彼はスポンサーとニューヨークに渡り、ハリウッドを見学。このときのニューヨークが、映画『メトロポリス』を制作するキッカケになったといいます。
彼は妻テア・フォン・ハルボウに意見を求め、彼女がシナリオを担当。ラングは1934年、ヒトラー政権下での迫害によってアメリカへ亡命。

テア・フォン・ハルボウ(1888-1954)はバイエルンに生まれ、ベルリンで文筆業に。1920年にラングと結婚。しかしナチが台頭すると離婚して仕事だけの付き合いとなり、ラング亡命後も第三帝国に残ったのだそうです。
彼女が執筆した小説は万単位に売れたが、ラングによって映画化された『メトロポリス』と『月世界の女』以外、今日顧みられるような作品はないとか。

映画『メトロポリス』について、スペインのルイス・ブニュエル(1900-1983)監督は、物語としては皮相なセンチメンタリズムと危険な折衷主義と勿体ぶった象徴主義を混ぜあわせ、これにたっぷり恐怖のシーンを加えた腹立たしい代物だが、これはシナリオの責任である。だがこと映像の美しさにかけては、われわれシネマディクトの夢想をすべて適えてくれる。(p357)と、シナリオを批判し、映像を褒めています。
イギリスの作家H・G・ウェルズ(1866-1946)もシナリオに関しては似たような意見ですが、映像に関しては「素晴らしい可能性の浪費」というような意味で酷評しています。
両者に共通しているのは、シナリオの「センチメンタリズム」と「思想性」という点でしょうか。
ともあれ、映画で観るべき箇所は、ストーリーではなく映像にあるようです。なかでもアンドロイドのマリアは、映画史上もっとも美しいアンドロイドといわれるほどだとか。

酷評されたシナリオの小説が本書になるわけですが、これはひとえに原作者に問題があるのだと思います。私ももったいぶった象徴と大仰な表現センチメンタリズム、さらには非難されるのも当然であり非難しない方がおかしいと思う危険な思想性に辟易させられました。
ただ、困ったことに魅力が全くないわけではないんですよねえ。メトロポリスというわりに、H・G・ウェルズが批判したように新奇のアイディアはないのですが、怪奇色と東洋趣味が混ざった個々のアイディアは、古臭くて意味がよくわからなくても魅力の欠片はあるんです。
今日のテクノロジーからすれば、メトロポリスとパーテル・ノステル・マシンはとても古臭い。このマシンがどうやって都市の機能を担っているのかなど、科学的な事柄は全くわからないし、とても大雑把に書かれています。また、人々がなぜヨー・フーレデルセンと機械に服従するのか理解できませんでした。

作中のテーマとなるのは「頭(ヨー・フーレデルセン)と手(労働者)が、互いを理解するために、心臓(仲介者)を必要とする」こと。つまり、支配者と被支配者の関係を改善するためには、仲介者が必要とされるという意味。ここまではいいんです。でも、あまりにも安易な結末に憮然とさせられました。
支配者と被支配者、言い換えれば独裁者の主人と、主人に絶対服従しなければいけない奴隷的なまでの主従関係、両者の階層間の軋轢に関して、全く答えになっていません。
社会的に解決されるべき階級差別や人権問題、労働問題を、親子関係の問題にすり替えているところがあります。
さらには、フーレデルセンは辛酸を舐めてきた民衆に対して「心を入れ替えたから許せ」と、鶴の一言をいっているようなもの。

心を入れ替えるのはいいことですが、被支配者の意見が汲み取られることなく対話もなく、フーレデルセンという個人の感情に左右されるわけです。結果として、フーレデルセンが独裁者であり支配者であることになんら変わらないわけです。
支配階層と労働者階層をどうつなぐのかが問題となってくるのですが、それを「心」(「お互いが歩み寄る」という意味だと思います)だけに求めるのは、あまりにも安直。「歩み寄るためにはどうすればいいのか」が問題なのです。しかし物語を読むと、根本的に作者は階級社会を容認しています。そのため立ち位置が曖昧なこともあり、思想といえるほどには熟考されておらず、甘さが出てしまっているのだと思います。(2005/11/14)

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リア王/シェイクスピア

リア王
シェイクスピア(ウィリアム・シェイクスピア)

My評価★★★★★

訳・解題:福田恆存
解説:中村保男
新潮文庫(1993年12月改版)
ISBN978-4-10-202005-0 【Amazon
原題:King Lear(1604~1606年頃)


リア王は退位するにあたり、三人の娘たちに父への想いを語らせる。
長女ゴネリルと次女リーガンは甘言で父親を喜ばせるが、末娘コーディーリアは言葉ではなく真心で尽くそうとする。だが真意が伝わらず、リア王は激怒。領土と権力と財産を二人の姉に分割し、コーディーリアを勘当してしまう。
ケント伯爵は王を諌めようとするが、リア王はケントを追放する。フランス王に気に入られたコーディーリアは、無一文でフランスに嫁いでゆく。

リア王は百人の騎士を従え、月毎にゴネリルとリーガンの館で過ごすことにした。ケントは素性を隠し変装して王に仕える。
ゴネリルとリーガンはリア王を冷たくあしらい、リアは城を飛び出して雷雨の荒野を彷徨う。リアに従うのはケントと道化だけだった。

一方、グロスター伯の庶子エドマンドは、策略によって嫡子エドガーと父グロスター伯を対立させ反逆者に仕立て、自らが伯爵の地位に就こうとする。
エドガーは野に落ち、身の安全のため狂人を装う。グロスター伯も野に落ちのびた。
リア王への仕打ちを知ったコーディーリアは、父を庇護して復位させようとするが・・・。エドマンドはゴネリルとリーガンに接近し、権力の掌握を企む。

********************

シェイクスピアの四大悲劇の一つ。映画を観たことがあるのでストーリーは知っているのだが、文字で読むのは初めて。すごく奥が深く、改めて不朽の名作だと思った。

リア王は目に耳に快いものを求めるため、真実が見えない。愚かさゆえに、自ら悲劇のキッカケを作ってしまう。
絶望から狂気に捉われたリアは、嵐の荒野に飛び出す。猛り狂う雷と嵐は、リアの心象風景であろう。
狂気の中でリアは、権力志向や自己や他者の欺瞞など、様々な虚飾が剥ぎ取られていく。狂気はリアが生まれ変わるためのイニシエーションのようでもある。
また狂気は、俗世に居場所を失ったリアが自己保全のために創り上げた最後の砦。リアは狂気によって彼自身の世界に到達したのではないのか。
その世界への到達は、彼が分解され組み立て直されてゆくため、自己を修正するための過程のように思えてならない。しかし、あくまでも「通過点」にすぎない。

物語はリアとの娘の対立、グロスターと息子の対立という二つの流れが交互に語られ、次第に一本化されてゆく。
グロスターの悲劇は、リアの狂気をバックアップするためのように思われる。道化の存在も同様に感じられた。

結末は悲劇だ。だが、そこに救いはないのだろうか?「ある」と私は思う。本書は魂の救済の物語、と読むことができるのではないかと思う。
リアもエドマンドも、エドガーやグロスターさえも、失(喪)って初めてその価値を知ることができる、ということが全編を貫いているように思われるからだ。
魂があるとするならば、哀しみと憐れみを識ることによって、リアの魂は救われるのである。しかし、それはコーディーリアの殉教あってこそ。彼女の死を殉教と捉えるか犠牲者と捉えるかによって、リアの死の意味が大きく変わってくる。
また、コーディーリアやケントたちがリアの生あることを願ったにも関わらず、リアの死によってこの国は浄化される。なんとも皮肉めいた結末だ。考えるとこの物語は、すべてが逆説めいているように思われてならないのだけれど。
とまあ、思いつくままに書いたけれども、実はまだよくわかっていなかったりする。いまだ理解しきれていないのだけれども、素晴らしい作品だと思う。(2007/12/26)

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