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リーサの庭の花まつり/エルサ・ベスコフ

リーサの庭の花まつり
作・絵:エルサ・ベスコフ

My評価★★★☆

訳:石井登志子
童話館出版(2001年8月)
ISBN4-88750-031-9 【Amazon
原題:BOLMSTERFESTEN I TÄPPAN(1995)


リーサの庭の花まつり夏至まつりの日、リーサは夏至の精と出会います。その夜に、リーサの家の庭で行われる妖精たちの花まつりに招待されました。
夏至の精はリーサのまぶたに花のしずくを垂らします。すると、リーサは花たちの動くのが見えるようになり、花からはリーサが見えなくなりました。

花たちはまつりの準備の大忙し。やぐるま草を先頭に、マーガレットや野ばら、ブルーベルといった草原の花たちがやって来ます。森からはリンネ草や野いちご、ブルーベリーの子どもたち、まつかさ坊といった行列がやって来ました。そのほかにもたくさんの花の妖精たちがやって来ました。
ばらの女王の元には、パンジーとしゃくやく夫人たち、ライラックの娘や騎士のイリスたちが集っています。

歌のコンクールがはじまり、みんな楽しそう。そのとき、垣根の向こうで、雑草たちの騒ぎが!
仲間に入れてもらえない雑草たちが騒いでいるのです。花たちと野菜たちは、雑草が入り込むことを嫌っているからです。
でも、今日は一年に一度の夏至まつり。そこで、ばらの女王は・・・。

********************

エルサ・ベスコフ(1874-1953)は、スウェーデンを代表する絵本作家。その絵本は国際的に高く評価され、いまでも愛され続けています。

この絵本は、夏至を祝う花の妖精たちを描いています。
夏至まつりの日、リーサの庭にたくさんの草原や森、池や沼、庭と野菜の花たちがやって来ました。何種類の花の妖精が描かれているのか、とても種類が多いんですよ。
バター色したきんぽうげの親子、赤かぶの奥さん、ゼラニウムの娘、麦の兵士、パンジー夫人、マロニエ夫人、いらくさばあさん・・・。
どの花も、それぞれの花の雰囲気に合った役柄と衣装を描き分けられていて、花の特徴が巧みに表現されているんです。それだけ花を知悉していたということなのでしょう。よく観察してますねえ。

ベスコフの絵は、どのページも愛らしく清潔感がありますね。きれいな絵に、ストーリーもきれいにまとまっています。逆に言えばアクがないと言いますか。万人に愛される絵だとは思うのですが、アクのなさがちょっと物足りなかったりします。(2012/4/29)

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エル・カミーノ(道)/ミゲル・デリーベス

エル・カミーノ(道)
ミゲル・デリーベス

My評価★★★★

訳:喜多延鷹
彩流社(2000年3月)
ISBN4-88202-636-8 【Amazon
原題:El camino(1950)


チーズ作り屋の息子ダニエルは11歳になったとき、父の意思によって、町の上級学校で勉強するために村を離れることになった。
少年はいつも驚いたように目を見開いて物を見るので、<ミミズク>ダニエルと呼ばれていた。

ダニエルは<鍛冶屋>パコの息子の<牛糞>ローケと仲がよかった。ガキ大将のローケと、<横顔は見られない男>アンドレアスの息子、<タムシ>ヘルマンと3人で過ごす。
彼らは様々ないたずらを思いついて実行する。<アメリカ成金>ヘラルドの果樹園でリンゴ泥棒しようとした3人は、ヘラルドの娘ミカと出会う。
このときからダニエルはミカに憧れる。しかし、いたずらが、ときにはとんでもなく恥ずかしい結果を招くこともあった。

嫌われ者の<赤トウガラシ姉>ローラ、<片腕>キーノ、<ペオン>モイセス、ダニエルの気持ちを理解してくれる<大聖人>ホセお坊様・・・。少年たちを通じて村人たちの人生が語られる。
ダニエルが村を去る日が近づいたとき、ある事件が起こった。

********************

ミゲル・デリーベス(1920生まれ)は、スペインのカスティーリャ、レオン州の州都バリャドリッド生まれ。アストゥリアス皇太子賞、スペイン国民文学賞、セルバンテス賞などを受賞しており、現代スペインを代表する作家。

物語の舞台は、北部スペインのとある村。スペインというと荒涼とした大地を思い浮かべるのですが、北部は案外に緑が多そう。その緑豊かな村を離れることになった11歳の少年ダニエル。少年はこれまでの日々を回想する。

<ミミズク>や<牛糞>とかのあだ名が連発されますが、スペインでは同名が多いので、人物を特定するためにあだ名で呼ぶのだそうです。
ダニエルたちはガキ大将ローケに率いられて様々なイタズラをします。彼らのイタズラを笑って許せるのは、陰湿さがないから。健全なる腕白ぶりですね。
少年たちの関係は必ずしも友情だけではなく、ダニエルのローケに対する憧れと競争心のように、相手に自分を認めさせたい、負けたくないという気持ちがうかがえます。そんな少年たちの微妙な心理、力関係がよく書けていると思いました。
全体としてダニエルよりもローケに生彩がありますね。ローケはむやみと他人に追従しない独立心があり、雄々しく逞しい。
何者をも恐れないローケの雄々しさ純心さ。それは村でだからこそ育まれたものであり、村にいるからこそローケは生き生きとしているのではないでしょうか。

彼らを見守っている<大聖人>ホセお坊様は、ダニエルが自分がやらかしたことを言い出せないでいるとき、彼の気持ちを理解していることを何気ない言葉と態度で示するんです。ああ、いい人だなあとジーンときました。このお坊様、説教は熱心でも、案外にちゃめっ気もあったりするんですよ。
アメリカ成金の娘ミカは凡庸でしたが、それ以外はどの人物も各々味があって、生命力に満ちている。そして各人は、生きてゆくための悲哀を背負っている。

表立っては強調されていないのですが、ローケの傷痕の由来で触れているように、内戦後(1936-39)のフランコ政権崩壊後に時代設定されています。
訳者あとがきによると、内戦後のスペイン文学は内戦とは何だったのかということを見直そうとして、内戦とフランコ政権体制批判ともいえる痛烈な風刺や悲観主義、凄絶さを強調した「凄絶主義(トレメンディスモ)」が発展していったのだとか。
しかし、この作品は凄絶主義と一線を画し、少年の目に映った村の現実を、悲惨さを強調したり歪曲せずに、ありのままに描いているといます。
確かに、読んでいると戦争を意識させず、ダニエルの目を通じて村人たちの暮らしぶりを知ることができます。ただし、短い断章の連なりによって成るこの作品は、章によっては必ずしもダニエルが主人公というわけではありません。
ときにはダニエルから作者の視点へと移り、村という地域で普通に暮らす人々の生活が語られるのです。何れにせよ、村で暮らす人々の生き方を飾らない言葉で描いていました。

どこかしら郷愁感とほろ苦さがあるのは、町へ行くことによって、ダニエルは村での生活を失うことを知っているからなのでしょう。村で過ごした少年時代は二度と戻ってこない、少年から大人になることを知っているのです。
過ぎゆく日々は戻らない・・・。そういう気持ちを知った世代にこそ、この物語はより輝きを放つのではないでしょうか。(2002/8/29)

追記:2010年3月逝去。享年89歳。

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酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行/ヴェネディクト・エロフェーエフ

酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行
ヴェネディクト・エロフェーエフ

My評価★★★★

訳:安岡治子
国書刊行会(1996年11月)
ISBN4-336-03890-2 【Amazon


酔いどれて見知らぬ建物の外階段の、下から40段目で金曜の朝を迎えたヴェーニャは、いまだクレムリンを見たことがない。クレムリンへ行こうとしても、いつもなぜかクルスク駅へ出てしまうからだった。
ヴェーニャは8時16分発の、モスクワ・クルスク駅発-ペトゥシキ駅行き列車に乗り込む。
ペトゥシキにはこれまで12回通い、駅で11時に恋人と待ち合わせをしているのだ。それから3歳の息子に会う予定。

ヴェーニャは班長をやめさせられた原因となった、労働と飲酒の関係をグラフに表したことを回想する。ペトゥシキで待つ女性のことを考え、酔っ払いのしゃっくりの数学側面の研究に打ち込もう、それ以外にこの世にやることはないと断言する。
そして特製カクテルのレシピを披露し、「クラヴァ伯母さんのキス」を飲もうとしたところで、肝心の酒を盗まれてしまう。それが縁で乗り合わせた人たちと文学談義を酒を交わし、独自の見解を開陳。
いつしかヴェーニャは酩酊状態に陥り、窓の外は真っ暗闇に。
朝8時に出て、2時間15分でペトゥシキへ着くはずなのに、なぜ暗闇なのだ?列車はいまどこを走り、どこへ向っているのだろう?

********************

ヴェネディクト・ワシリーエヴィチ・エロフェーエフ(1938-1990,ロシア)はソ連時代の作家。
訳者あとがきによるとこの作品は1970年に書かれて、地下出版で回し読みされていたのだそうです。73年にイスラエル、77年と84年にパリでロシア語が出版。その後、十数ヵ国語に翻訳。ペレストロイカ以後の1988年、ソ連で公式に出版。

ヴェーニャは列車でペトゥシキへ向うのですが、ともかく飲んで飲んでひたすら飲みまくる。
酒を飲むことによって、肉体的にも精神的にも浄化するという考え方がありますが、ヴェーニャにとって飲酒は現実逃避の手段だけではなく、浄化という側面もあるのかもしれません。

ヴェーニャは、自身をも含めて、画一的な全体主義とそれに盲目的なまでに従順な人々を茶化す。文学、絵画、音楽などの諸芸術、そしてイデオロギーそのものも懐疑的で諧謔的、アイロニカルに茶化しまくるんです。
東西を問わず様々な芸術家のことがポンポン飛び出すのですが、私にはまったくなじみのない名前がほとんどを占めるため、なんだか煙りに巻かれたような気分になった。
また、私はソ連時代の社会状況もよくわからないので、ヴェーニャの皮肉=作者の意図するところがよく理解できませんでした。ソ連に詳しい人だったらもっとキチンと読解できるのかも。

物語はいつのまにか現実の世界から、アル中の幻覚かと思うような精神世界へと移行してゆき、ヴェーニャはカタストロフへと向ってゆく。
ラストでヴェーニャは真っ赤な一文字の幻影を視るのですが、この一文字がクセ者。この文字を訳者はあとがきで、復活を示唆したものだと解いています。
冒頭からキリスト教の復活が示唆されてはいるのです。でも、この一文字がなければ延々と同じことを繰り返す円環構造だと思ってしまう。
たんなる円環なのか?それとも新たな社会、つまり希望に満ちた未来への復活なのか、判断が難しい・・・。
訳者は、死は新たな未来へ復活するための救済だと考えています。そうなのかもしれない。確かに、破滅のあとの復活は、新たな希望を意味していますよね。ということは、破滅的な状況にありながらも、一縷の希望に縋っているのかもしれない。(2003/3/7)

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