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村田エフェンディ滞土録/梨木香歩

村田エフェンディ滞土録
梨木香歩

My評価★★★★☆

角川書店(2004年4月)
ISBN4-04-873513-6 【Amazon


『家守綺譚』で、名のみ登場する土耳古(トルコ)に招聘された若き考古学者・村田君が主人公。終盤では高堂と綿貫、ゴローも登場。
時代背景は約百年ほど前の1899年、第一次世界大戦前のスタンブール(イスタンブール)。「エフェンディ」とは、主に学問を修めた人物に対する敬称とのこと。

村田はイギリス人のディクソン夫人の屋敷に下宿していた。屋敷には村田の他にドイツ人の考古学者オットー、ギリシア人でギリシアの考古学会員ディミトリスが下宿していた。
日常の雑事はムハンマドが担っている。ディクソン夫人とオットーはキリスト教徒、ディミトリスはギリシア正教徒、ムハンマドは回教徒、村田は一応仏教徒と、人種も宗教も多様だが和気藹々と暮らしている。

ある日、ムハンマドが通りで鸚鵡を拾う。このとき鸚鵡が喋る言葉は、「悪いものを喰っただろう」「友よ」「いよいよ革命だ」「繁殖期に入ったのだな」「失敗だ」に限られていた。鸚鵡は絶妙のタイミングで、知っている言葉を駆使する。後には「もういいだろう」という言葉も覚えた。

ペルシアからアナトリアの地を横断し、艱難辛苦の末トルコ入りした木下氏。その木下から貰った稲荷神社のキツネの根付け。部屋の壁に使われている新石器時代の石から、光り浮かび上がる牡牛。エジプトのアヌビス神など、なぜか村田のところに異種の神々が集まり、一騒動が起こる。
村田と木下と清水は忽然と消えたアヌビス神を探すため、霊媒師を訪ねることになった。だがそこにはトルコに革命を起こそうとする人々がいた。

急遽、村田は帰国することになった。村田が大学で多忙を極めている間、世界情勢はどんどん不穏になり、サラエボではオーストリア皇太子夫妻が暗殺される。
世界情勢の悪化に伴い、ディクソン夫人から村田への手紙は次第に間遠となり、やっと届いた手紙には・・・。

********************

終盤では思わず目頭がうるうるしてしまいました。これまでに読んだ梨木さんの著作にはないタイプの展開だったので、心の準備ができていなかった。いえ、心の準備というものは必要ないですよね。素直に読めばいいんだよね。

オットーに随行した発掘現場で、ローマガラスを発見して得意満面の村田。ディミトリスとの乗馬、ムハンマドとのカフェなど、異国の地で人種も宗教も異なる友と過ごす日々。だが国際情勢は悪化の一途を辿り、やがて第一次世界大戦へと突入してゆく。
ディクソン夫人の屋敷に下宿していた若者たちは一人去り二人去り、残されたのは・・・。

鸚鵡の喋る言葉とタイミングが絶妙で、ディミトリスに対するツッコミには笑えました。でも鸚鵡は決してコミックリリーフだけではないんです。語り手は村田君ですが、影の主役は鸚鵡なんですよ。過ぎ去りし日々を最も悼んでいるのは鸚鵡なのです。
人間は戦争に何らかの理由をつけ、自身の行動を正当化します。でも鳥である鸚鵡にはそんなことはできません。国境・独立・革命などによる戦争とは無縁の存在であるが故に、自身の理解の範疇を越えたところで起こる理不尽な出来事に対し、種々の思惑に捉われることなく悲しみを表すことができる。

史実では、1899年前後のトルコは、国内外での紛争が絶えなかったようです。世界的には、各地で列強国の植民地支配から脱すべく独立戦争が勃発しています。そんな時代を背景にしつつ、ディクソン夫人の屋敷では人種・宗教を超えて友情が育まれる。
作中では、宗教の違いが幾度も繰り返されます。そして、人と人はたとえ真には理解できなかったとしても、お互いに差異を認めることはできるのだ、と。
この作品を読んでいると、戦争は人種や宗教などを越え個人レベルで分かり合うことができれば無くなる、といっているかのように思われなくもないです。小説とするにはわかりやすいのだろうけれど。
人種・宗教の違いを越えて人と人が理解し合えれば・・・という作者の考えにはもちろん賛成です。しかし事はそう単純ではない。当時の戦争には、民族的対立や大国支配からの独立という面のあるからです。
作者の意図とは異なるでしょうが、私としては国同士になると個は抹消されてしまうことについて、なぜそうなるのか、といったところを突っ込んでほしかった。

ディミトリスがある人(おそらくハミエットではないかと思う)の、「人は過ちを繰り返す。繰り返すことで学ばなければならない」という趣旨の言葉を語るのですが、過去(歴史)から学ぶことをせずに、未来(結果)を予測することはできないでしょう。そのために歴史があるのだと思います。そして愚行と悲劇を繰り返さないために、歴史から学ばなければならないと思うのです。(2004/7/29)

追記:2007年5月、角川文庫化 【Amazon】。

家守綺譚

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家守綺譚/梨木香歩

家守綺譚
梨木香歩

My評価★★★★★

新潮社(2004年1月)
ISBN4-10-4299030 【Amazon


駆け出しの文筆家・綿貫征四郎は、亡き友人の実家を預かることになり、池付きの庭のある二階建て日本家屋で暮らしている。
ある日、亡くなった友人の高堂が、床の間の掛け軸を通って現れる。また、犬のゴローが住み着く。
主人公が遭遇する草木花・河童・タヌキなど、自然界に生きるものたちが織り成す摩訶不思議な出来事。サルスベリの恋慕、けけけっと笑うヒツジグサ、河童の抜け殻、タツノオトシゴを孕む白木蓮。厄除け売りの札屋、竜田姫、浅井姫、花鬼・・・。
四季折々の花の名前を各章題として、人外のものたちとの交歓が綴られる。およそ百年ほど前の物語。

********************

風や雨垂れの音、ほろほろと咲き散る花々、ゆるゆると過ぎてゆく四季。
昔は人と自然き近接な関係にあり、自然界の声を聴く耳をもっていたのでしょうね。そこから異界を身近に感じることができたのかもしれません。そんな時代が書かれていて、まさに「綺譚」としか言いようのない作品でした。
ゆったりと語られるムードが心地よく、読後は穏やかな気持ちになり、ほーっと息をつきたくなる。満足半分憧れ半分、溜息ちょっぴり。な
ぜかとても懐かしく感じるのですが、この懐かしさは郷愁なのかも。なぜなら自然を身近に感じて暮らす環境とは無縁だから、ゆるりとした時間の中で過ごすことができないから。
コンクリートに囲まれて自然から切り離された生活、しかも人と人同士が孤立して暮らしている現代において、作中で語られる環境はあまりにも遠い。それが憧れと溜息の理由。

サルスベリ、犬のゴロー、何でも知っている隣家のおかみさんなど、脇役陣が個性的。ゴローが河童に惚れられるのが可笑しい。
特に可笑しかったのは、主人公がサルスベリに惚れられるところ。それと、彼がゴローの現れ方を見て、おまえは何者なのかととりすがって聞き糺したい気分に襲われた箇所。
語り手の征四郎は、飄々としているのか図太いのかよくわからないけど、ときにごく普通の人と同じような反応をするので親しみやすい。
これだけは言えるのは、彼には見栄がないということ。見栄は欲を生み、欲は人の目を曇らし、本来なら見えるものも見えなくしてしまう。彼は見栄を張ることがないから、様々な異形のものたちに親しまれるのではないのでしょうか。

作中では人もまた自然界の一員であり、人だけが傑出しているのではなく、自然界に生ききるすべてのものが対等な関係にあるようです。
自然界に生きるものたちは互いに相手を認め合い、決して卑しめたり貶めたりしない。ケンカをしても、仲裁者の意見に耳を傾ける謙虚さを失わない。異種族であれ受け入れる寛容さがあるのですね。

時代背景は『木槿』の章で、1890(明治23)年9月16に起こったトルコのエルトゥール号難破事件が「先年」となっているので、明治23年以降。
義援金を募った山田寅次郎が単身トルコへ渡ったのが1892(明治25)年4月だから、おそらくは寅次郎の尽力によって両国の交流が盛んになり、日本から考古学者が招聘されたのではないかと想像。従って明治25年以降ではないかと思われます。

カバーもいいのですが造本がとても素敵で、カバーを外すと表紙は鴇色。見返しは神坂雪佳 (1866-1942)の画『白鷺』と『巴の雪』という贅沢さ。さすがに和装本ではなけれど、今時の単行本としてはしっとりと味わいのある装丁が嬉しい。(2004/5/7)

追記:2006年9月、新潮文庫化【Amazon】。

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日の名残り/カズオ・イシグロ

日の名残り
カズオ・イシグロ

My評価★★★★★

訳:土屋政雄
中公文庫(1994年1月)[絶版]
ISBN4-12-202063-8 【Amazon
原題:The Remains of the Day(1989)


1956年7月、ダーリントン・ホールの老執事スティーブンスは、現在の館の主人であるアメリカ人のファラディに、数日のドライブを勧められる。
スティーブンスはこの機会に、以前に館で女中頭を勤めていたミス・ケントンに復帰の意向を伺うためと、イギリスの風景を堪能するために西部地方へと出かける。

ドライブを楽しみながらスティーブンスは、ダーリントン卿時代を懐古する。
かつてダーリントン卿が主人だったころには、国際政治談義の中心として賑わっていた館だが、いまは館の一部は閉鎖され、雇い人も減って慢性的な人手不足となっていた。
ダーリントン・ホールの華やかなりしころ、執事にとって大いなる充足感に満たされていた時代。ときには辛く悲しい思い出もあり、またミス・ケントンと衝突したこともあるが。

卿は信念をもって国政に携わったが、後人生では不名誉な立場となり、いまもって世間の噂は中傷に溢れていた。だが、スティーブンスにとっては、卿こそ真に仕えるべき高徳の紳士であった。スティーブンスは偉大な執事とは何か、それは品格にこそあると考える。
旅に出て6日目。スティーブンスはウェイマスでミス・ケントン、いまはミセス・ベンと再会。二人は思い出に花を咲かせるが、過ぎた時間は戻らない。

********************

1989年、ブッカー賞を受賞。
季節は夏なのに、なぜか秋を思わせるしっとりした物語。秋の午後、やわらかな陽射しのなかで読むのが似合いそう。老執事スティーブンスが、人生の晩秋において過ぎ去った日々を回顧するところから秋を感じるのかな。
内容と噛み合った感情抑制の効いた文体が心地良く、こういったところがしっとりとした印象をもたらすそこにのでしょう。スティーブンスとミス・ケントンのほのかな慕情も。逆に言えば理知的すぎるきらいがあり、若干、作者の若さを感じがなくもないような。

スティーブンスは常に偉大な執事とは何かを考える。それは品格にあるとしている。当然ながら、では品格とは何かとなるわけです。彼は品格というものをイギリス人の上流階級の紳士たちから探っていく。それはイギリス人とは何かを考察することでもあるのだと思います。
私としては品格よりも、スティーブンスを執事たらしめた矜持とは何だったのか、ということのほうが気になります。

私がいちばん気になったのは、レジナルド・カーディナルがダーリントン卿を非難し、卿が間違った道へ進むのを止めようとスティーブンスに話をもちかけたとき。
こういった場合は、忠実な執事なら一般的には主人の不正を嘆くか、レジナルドに反発するのではないでしょうか。ところがスティーブンスは、レジナルドに反発も賛同もしない。己の職務に忠実で分を越えることはしないんですよ。
スティーブンスの感情が淡白でも極端に抑制しているのでも、卿やレジナルドに興味がないのでもない様子。
彼は卿に全幅の信頼を寄せているのですが、だかといって盲目的に信頼していて服従的ではなく、あくまで一定の距離を保っている。お互いを尊重しつつ一定の距離を保つ。確かにそうなのですが、それは執事の役目だからという以前に、個人対個人の関係にあるような。
自分とは異なる考えの人間を受け入れられるキャパシティーの広さ。つまり価値観の相違を認めているのだと思うのです。スティーブンスは自分とは異なる価値観を、自分自信の価値観に照合しているよう。常にそういう精神的(あるいは理性的)な作業を行っているように感じられました。
第一次世界大戦から第二次世界大戦終結までを時代背景にしているので、そのあたりの歴史を踏まえて読むと、より深い意味があるのかもしれません。

冷静沈着なスティーブンスですが、彼が冷静さを失うのがミス・ケントンの前だけ、というところがいいんですよねえ。

備考)2001年5月にハヤカワepi文庫より刊行【Amazon】(2001/11/03)

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