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シネロマン/ロジェ・グルニエ

シネロマン
ロジェ・グルニエ

My評価★★★★★

訳:塩瀬宏
白水社(2001年9月)
ISBN4-560-04727-8 【Amazon
原題:Ciné-roman(1972)


1972年度のフェミナ賞受賞作。
1930年代、ピレネー山脈に近いフランスの片田舎。見世物興行師ラ・フレーシュは、サイレント映画時代に映画館『マジック・パレス座』を建てた。マジック・パレス座は町の中心から外れた河向こうの場末にあるのだが、町の住人たちは河向こうの地区とラ・フレーシュをいかがわしく思っていたので、決して足を運ぶことはなかった。
ラ・フレーシュはダンスホールを隣接するが、経営難のためにマジック・パレス座を売りに出した。買ったのは他所の土地から来たローラン一家だった。

ローラン夫妻は映画産業が芸術的な職業だと思い、意気揚揚とマジック・パレス座の興行に乗り出す。初日にはローラン夫人ぞっこんのフランシス・マレショーの映画をかけたが、トラブルに見舞われる。
時代的には既にトーキーからカラー映画へとなっていたが、三流映画館では新作をかけることができず、客足が途絶えて経営難に陥っていく。
一人息子のフランソワは学校へ通いながら父母の仕事を手伝い、やがて映写技師の仕事までこなすうちに、映画に魅了されていく。だが、ついに自転車操業が限界に達し、マジック・バレス座を手放さざるを得なくなった。

ローラン夫妻は町を去るが、フランソワは学期の中途ということと大学入学資格試験が間近のため、ラ・フレーシュの家に下宿しながら仕事を手伝う。ラ・フレーシュの家には、マラソン・ダンス(耐久ダンス競技)に出場したクリスチーヌも間借りしていた。
ある日、ラ・フレーシュは療養所にいたフランシス・マレショーを引き取る。かつての大スターは老いて落ちぶれていたが、ラ・フレーシュはマレショーを中心とした地方巡行を考えた。巡行にはフランソワとクリスチーヌも一役買っていた。そして、いよいよ興行が始まる。

********************

フランソワによる少年時代の回想として、1930年代フランスの田舎にある場末の映画館(館と言うより小屋)での日々が語られる。
マジック・パレス座の年代記、マジック・パレス座をめぐる人々の物語とも言える。マジック・パレス座が薄暗くオンボロで、猥雑であればあるほど魅力的だ。埃っぽくてどこかいかがわしいが、人間臭が立ちこめている。
通常は語り手を主人公と考えるだろうが、フランソワやローラン一家よりも、山師ラ・フレーシュが断然個性があり魅力的。出番は少ないが映写技師のレオン・ラヴィーやマレショーもいい味を出している。

私にはこの作品はストーリーよりも、訥々と醸し出されるムードに惹かれる。この物語が醸し出しているムードに、いつまでも浸っていたいと思った。
この物語には、イタリア映画の『ニュー・シネマ・パラダイス』(完全版の方)と、共通するムードがあると思う。ヨーロッパ映画を好きな人ならわかると思うのだが、ヨーロッパの映画は饒舌ではなく、心象風景が無言のまま風景や所作、カメラワークに重ね合わせられていて、独特の静謐な雰囲気がある。猥雑さも、一種の静謐さを秘めているように思う。この作品にはそんな雰囲気がある。
結果として雰囲気が醸し出されたのではなく、作者は映画の持つ雰囲気を再現したかったのかもしれない。

30年代当時の映画界の情勢や、映画館の構造や経営の仕方がよくわかる。第二次大戦の当時、都市化と大衆化・消費化が進んだ時代。映画産業では、技術的に格段に進歩したハリウッド映画がヨーロッパへ進出。ヨーロッパの映画産業が衰退の兆しを見せ始めたころ。都市化・大衆化によって地方文化は衰退し、出所不明の山師が一般人に許容されなくなってきたようだ。
ラ・フレーシュやローラン夫妻のように、個人の欲求に基づいて個人によって娯楽を提供し生計を得ようとする、興行師もしくは山師が姿を消し始めた時代のように思われる。ラ・フレーシュは最期の山師と言えるかもしれない。
様々な要因が絡んで、映画が消費されるようになった時代が描かれているが、映画に携わる人々を描きつつ、一つの時代の終焉と新たなる時代への転換期が描かれている。

この作品は全体的に「哀歓」とか「郷愁」といった雰囲気に包まれていると思うが、だからといってそう評するのは適当ではないと思う。作者はわりとストイックで、登場人物と読者との間にギリギリのところで距離を置いているように思われるからだ。
ローラン夫妻が苦しい経済状況でも経営を続けていたのはなぜか。ローラン夫妻とラ・フレーシュ、マレショーたちは、皆が例え己が身を持ち崩しても、おそらくは決して手にすることのできない何かを恋焦がれて追い求めている。地位や名声以外の何かだ。
ラ・フレーシュのおかみの最期は哀れだが、むしろ私はマレショーがいちばん哀れだと思う。いや、老いてなお夢を求めるから幸せと言うべきなのだろうか。マレショーこそ作者の志向するところを端的に象徴しているのではないだろうか。
マレショー、ラ・フレーシュ、ローラン夫妻を哀れとみるか、もがきつつも焦がれるほど何かを渇望できることを幸せと思うか。この点の判断は、読む側の経験や人生観に委ねられるのではないかな。
例えば10年経って再度読んだとき、現在とは違う感慨があるかもしれない。20年経って読んだとき、ラ・フレーシュやマレショーをどう感じるだろう?
物語は、ドラマチックな展開がないので地味と感じる人もいるかもしれないが、滋味があり、歳を経るごとに読み返したいと思った。(2002/5/31)

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