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美しいもの/赤木明登

美しいもの
赤木明登

My評価★★★★★

写真:小泉佳春
新潮社(2006年10月)
ISBN4-10-302571-9 【Amazon


赤木明登さんは編集者を経て、1988年に輪島へ移住して輪島塗りの下地職人のもとで修行。のち独立し、塗師(ぬし)として活躍している人。オフィシャルサイト【塗物】。
著者は様々な分野で活躍する14人を訪ね、暮らしぶりから彼らの美学を探る。
登場するのは、陶芸家の小野哲平、リュート奏者つのだたかし、陶工の安藤雅信、デザイナーのヨーガレン・レール、テキスタイルデザイナー真木千秋、グラフィックデザイナー山口信博、社会経済学者の松原隆一郎、木地師の仁城義勝、フードジャーナリスト平松洋子、小田原にある和菓子屋『菜の花』店主の高橋台一、陶芸家の李英才、錬金師の長谷川竹次郎。
彼ら14人に「美しいものとは何か」という質問をぶつけ、「人はなぜ美しいものに惹かれるのか」を考える。

小野哲平さんのDMに、
さわられたり みれたり するものじゃなくて かんじているもの それはなにかといえば
ぼくだったり あなただったり することだけれど それが いちばんだいじ
めしをつくる せんたくしたり そうじしたり こどもといっしょにいる
そういうこととおなじように ものをつくる(p15)

という文章があるという。要するに物を作ることは何も特別なことではなく、なにげない日常生活の一部であり、生活の中から生まれてくるということだろう。

安藤雅信さんは「民芸の本質は、作り手が自らを消していくことにあるんだ。美術家の本質は、誰も気付いていないことに気付き、人に伝えること。その両面を含みながら作られた生活道具は、鑑賞してもらうものではなく、使って初めて、それまで気付かなかった何かがわかるものなんだ」(p42)と語っている。
美術品は鑑賞するものであって実用品ではないため、美術品に実用性や機能性は求められていない。美術品にとって<個性>は大切だが、民芸はそうではない。むしろ個性は邪魔なだけだと思う。
器だけではなく用具や建築もそうだが、スタイリッシュだけれど使い勝手が悪いということが多々ある。見た目だけ良くてもダメなのだが、そこを勘違いしているデザイナーや建築家(だけではないけれど)がなんと多いことか。
赤木さんはかつて「あなたのしていることは、無地ではなくて加飾なんです」(中略)「あなたは、自分と比べるとよけいなことを色々やっている。ならば、なぜ、よけいなことをっているのか、その意味を考えろ」(p98)と言われたのだそうだ。
仁城さんは「自分のこころをざわつかせるような器だけは、作りたくない」(p93)と言う。また、「美しいとか美しくないとか、そんな大それた言葉は、使いません」(p101)と言い切る。そう言い切る仁城さんが、すごいなと思う。

「美しいものとは何か、人はなぜ美しいものを求めるのか」と考えてみる。美しいものは豊かな気持ちにしてくれる。でも、「何が、なぜ」と考えると非常に難しい。このことを考えると、柳宗悦の言葉が思い浮かぶ。
柳宗悦は自著『美の法門』の中で、美醜からの解放について説いている。語弊はあるが私なりに簡単に言うと、醜を排除するあまり美に捉われることは不自由であり、美しくしなければ美しくないというのは不自由な証拠だという。美しくしようとすることに滞ることは二次である。不完全さを厭う美しさより、不完全さをも受け容れる美しさのほうが深い、と無碍の道を説いている。
赤木さんに美しいものは何かと問われたヨーガン・レールは、「私が美しいと思うのは『自然』です」(p52)と答えている。その後の嫌いなものの発言から察するに、おそらくは「在るがままの美しさ」という意味だと思う。例えば、自然は美しくしようと思って美しいのではないし、ましてや美しさを誇ることはない。

美しいものとはなんだろう?
私には答えを出せない。そもそも答えが必要なのだろうか。
作る側はともかくとして、使う側としては美しいものを見たときに、美しいと素直に感じる心持ちこそが大切ではないだろうか。(2006/11/22)

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