スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

故郷/チェーザレ・パヴェーゼ

故郷
パヴェーゼ(チェーザレ・パヴェーゼ)

My評価★★★★

訳・解説:河島英昭
岩波文庫(2003年6月)
ISBN4-00-327141-6 【Amazon
原題:Paesi tuoi(1939)


1935年もしくはそれより少し前、北イタリア・ピエモンテ州の刑務所から出所した青年ベルトとタリーノ。
都市部で育った自動車修理工のベルトは、農夫のタリーノを牛のように粗野で愚鈍だと見下していた。
タリーノの罪は、農園(グランジャ)に火を放ったことだったが、証拠がなかった。タリーノはベルトに、自分は冤罪だと言う。だが家に帰れば、親父に殺される。親父は、取り入れ時にブチこまれた息子(タリーノ)に対して、怒り狂っていると言うのだ。
タリーノはベルトに、行く当てがないし金もないのだから、うちで脱穀機を動かす仕事をすれば、寝る場所もあり賃金を稼げぐことができると、しきりに村へ来るように誘う。本心は、親父の不機嫌を逸らすことにあった。

丘陵地帯にあるタリーノ家の農園に着いたベルトは、タリーノの親父・ヴィンヴェッラ老人に引き合わせられる。ベルトはタリーノを小バカにしていたが、愚鈍そうに見えて、実は抜け目がなくしたたかなことに気づく。
ヴィンヴェッラ老人は、タリーノに更に輪をかけてしたたかだった。ベルトは徴兵された男手の変わりに、脱穀機を整備して脱穀を手伝うことに。

村では、タリーノに火を付けられた農園主のリーコが、復讐すべく彼を狙っているというウワサが飛び交っていた。タリーノは何ともないような風を装っているが、リーコの復讐に怯えていた。彼は後先考えずに息巻いて行動するが、本当は意気地がなかった。
ベルトはタリーノ家の4姉妹のうち、あか抜けた容姿と頭の切れを持ったジゼッラに惹かれる。二人はタリーノの目を盗んで逢瀬を重ねる。ベルトは、ジゼッラとタリーノの間に、憎しみにも似た何らかの確執があることに、否応なく気づかされる。
数日後、牧場(プラート)のエルネスト青年が、脱穀の打ち合わせにやって来た。エルネストは近在では稀なほど垢抜けて理性的だった。翌日、エルネストを含めた男たち総出で、脱穀が始まったが・・・。

********************

冒頭でベルトの悪友ピエレットの名前が、重要な登場人物かと思わせるように連発されるのだが、二人の関係がわからなかった。実はピエレットは本筋にまったく関係ない。この人物とエピソードは何なのだろう?

ベルトは、タリーノは愚鈍な田舎者なので、自分の方が利巧だから扱い易い相手だと思っている。ところが実はタリーノはしたたかで手に負えず、逆にベルトが振り回されてしまう。しかしタリーノより、彼の親父のヴィンヴェッラ老人がもっとしたたかだ。そしてどちらも気が短く、言葉ではなく暴力で人を屈しようとする。
親子のしたたかさや粗暴さ、激情に迸るままに身をゆだねる姿は、頑固さと無知からくる理性のなさのように思われる。タリーノ一家に対して、ベルトとエルネストは知識階級とでも言おうか。二人は無力だ。
一家と村人たちは、タリーノの行いを知っているのに、口を噤んで知らぬふりをしている。

事件の後にベルトはエルネストを問い詰める。エルネストは言う、理性のない者に理性を与えることこそ大切だ、とぼくは信じてきたのだ。(p199)
私にはヴィンヴェッラとタリーノ、そしてタリーノの母親が、農民の典型的な姿として描かれているように思われてならない。その姿は、考えようによっては農民は無知で愚かで非理性的で暴力的だと、作者が見下しているようにも受け取れなくもない。
しかし批判しているのであって侮蔑しているわけではなく、無知と暴力に甘んじていることが問題なのだ、と作者は言っているのではないかと思う。

エーリオ(エリオ)・ヴィットリーニ(1908-1966)の『シチリアでの会話』と共に、ネオレアリズモの双璧と言われる作品。
解説によると、執筆されたのは1939年だが、発表されたのは1941年(ちなみにヴィトリーニ『シチリアでの会話』も同年に発表)。執筆当時は、ファシスト政権下なので発表できなかったという。
1938年にムッソリーニ政権が崩壊の道を辿り始めた後、アンチ・ファシズムの出版社がローマに支社を設けて、体制に揺さぶりをかけるべく、第1巻の叢書にこの作品を出版。
とくれば当然、ファシズム批判の作品と思われるのだが、私にはこの作品の何がどうファシズムに関係するのか、いまいちピンとこなかった。不勉強なので、当時の知識人ではなく庶民(農民)にとって、ファシズムとは何だったのかが、私にはわからないということもある。
たぶん、ヴィンヴェッラ老人の独裁的な態度や、息子の悪事を見てみぬふりをした母親や、タリーノの姿がファシストをなぞっているのだろう。でもタリーノのような人間は、ファシストや農民でなくてもいるだろうと思うのだが。まあ、無理にファシズムに結び付ける必要はないのかもしれない。

ともあれ、北イタリアという風土の蒸すような暑気が伝わってきて、丘陵地帯に位置する農村の生活の息吹がイメージでき、当時の暮らしぶりを想像できた。田園小説でありながら都市小説でもある作品。さほど理解できていないので、もっと読み込まなくちゃいけないなあ。(2003/7/1)

シチリアでの会話(エーリオ・ヴィットリーニ)

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへにほんブログ村 本ブログ 海外文学へ

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

H2

Author:H2
My評価について
=1ポイント
=0.5ポイント
最高5ポイント

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター
検索フォーム
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。