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山の麓の老人/アジジ・ハジ・アブドゥラー

山の麓の老人
アジジ・ハジ・アブドゥラー

My評価★★★★

訳・解説:藤村祐子/タイバ・スライマン
(財)大同生命国際文化基金】(2005年3月)
非商業出版物のためコードなし
原題:Seorang Tua di Kaki Gunung(1981)


1950年代のマレーシア・クダ州。ボンスー山の麓のジャングルにある村で、73歳のトゥキアは一つ年下の妻ベサと暮らしている。
息子のフィクリは幼いころから利口だったが、村を出て出世した。いまやフィクリはクアラルンプールで、妻ファティマと、ファリドとラミンの二人の子どもと暮らしている。
フィクリは老いて貧しい両親に、一緒にクアラルンプールで暮らすように勧めるが、トゥキアは断る。トゥキアにとってはボンスー山の麓が世界のすべてであり、ジャングルは生活に必要なものを満たしてくれる豊かな地なのだ。

孫のラミンはトゥキアになつき、村に来ることを楽しみにしていた。トゥキアもまたラミンを可愛がり、ジャングルでの暮らし方を教えたいと願っていた。
トゥキアは村へやって来たラミンを連れて、ボンスー山へ登った。ラミンに山の自然を教えようと思ったのだ。
そのとき、とても美しいチュンガル(訳注によるとマレーシアやインドネシア、タイ南部のみに生育し、木質が硬いため建築用として人気のある樹木)の巨木をみつけた。数え切れないほど山へ来ているのに、初めて目にする、きれいな木だった。
二人は森へ蜂蜜を採りに行くが、トゥキアが蜂に襲われてしまう。トゥキアの事故を聞きつけて、フィクリとファティマ、そしてファリドがやって来た。

フィクリはトゥキアに、ボロボロの家(訳注によると高床式、プルポー(マル竹をたたいて平らにしたもの)造りで、屋根はブルタム(ヤシの木の一種)の葉で葺いている)を出て自分たちと暮らしてほしいと言う。
トゥキアは、息子も嫁も孫も、アラーが造ったこの恵み深い大自然を認めないこと、家が古くてボロボロだから村に帰って来ないのだと感じる。
彼らは年寄りの生活を尊重しないのだ。フィクリが育ったのはこのジャングルであり、この家だというのに。フィクリは雑誌は読んでも、もはやイスラム教の本は読もうともしない。
トゥキアはチュンガルを木を伐って、新しい家を建てることを決意する。家族みんなが暮らせる家だ。それは昔の賢者たちの格言に従って建てる、祝福された家でなければならない。
どれほど時間がかかり困難であろうとも、一人でチュンガルを木を伐って家を建ててみせる。そして、ようやく切り倒せる日がやってきたのだが・・・。

********************

アジジ・ハジ・アブドゥラー(1942年生まれ)は、解説によるとマレーシアのクダ州の出身で、詩人・脚本家・コラムニストとして活躍。多数の文学賞、作家賞などを受賞。
本作は1985年から二年間、中学校の国語の教科書として使用されたそうだ。2001年には、マレーシア言語文学研究所によって「20世紀のマレーシアを代表する文学小説」の一つに選出されたという。

村を出て、都会での暮らしを享受する息子フィクリとその家族。ジャングルの村での暮らしに平穏と充足を感じ、誇りを抱いている父トゥキア。山間部の自然の中でのトゥキアの生活が描かれている。
フィクリは老いた両親を心配するが、村での生活に価値を見い出せない。逆に親は都会での暮らしに価値を見い出せない。
そんな親をフィクリは理解できないでいる。双方にとって「豊かさ」というものの質が違うので、どうしても噛み合わないのだろう。

作中では様々な社会的問題が投げかけられている。核家族と高齢化、過疎化、嫁と姑、失われてゆく伝統、世代による信仰心の違いなど、価値観の対比と相違が書かれている。
都会で暮らす一人息子は、田舎の親を心配し後ろめたさを感じつつも、もはや田舎に住もうとは思わない。田舎で暮らす親は、都会ではなく自然の恵み豊かな村で暮らしたいし、息子たちにも村で暮らしてもらえたらと考えるが、強要はしない。
強要はしないが、自分たちの生活を尊重してほしいと考えている。ジャングルだから、古くてボロボロな家だから、老人だからという理由で見下されたくないのだ。
伝統的な造りの家での昔ながらの生活。それを否定されるのはトゥキアにとって、これまでの人生を否定されるようなものなのかもしれない。
終盤で悲劇が訪れる。だがラストで不思議と救われるような気がするのは、ベサの決断にあるように、自然の恩恵とともに生きる伝統的な暮らしが途絶えることはない、という希望が託されているからではないのか。しかしその姿は哀しい。実際には後に続く者がおらにず、孤独だから。

解説に氏の言葉として、この作品が反響を呼んだ理由は、小説を購入して読むことのできる都会で暮らす知識人層にとって、身近な問題であったからだと言う。アジジ氏も作中のフィクリのように、両親を田舎に残して都会で生活したのだそうだ。
訳者は、1980年代当時は外貨導入等の政策による工業化で、地方から都市へ働きに出た若い世代と、地方で近代化に残された高齢者間の軋轢という時勢だったからだという。
表れ方は異なれども、同じことは大なり小なり世界各地で起きていると思う。確かに日本とは環境や慣習などは異なるが、過疎化や高齢化、都市部と地方との関係というものは、日本だけではなく国境を越えて世界的に問題提起していると思う。

マレーシアへは行ったことはないが、私の行ったことのある他の東南アジアでは、都市部と地方の経済的格差は非常に大きい。地方によっては、いまだ水も電気もないジャングルで、高床式の家で暮らしている人たちもいる。若者は都市部へ働きに出てしまう。作中におけるトゥキア夫婦のような生活環境は、決して絵空事でも過去の出来事でもなく、いまも現実なのである。

(財)大同生命国際文化基金の出版物は市販はされていませんが、大学等の学校他、公立図書館へ納められているので借りることができます。(2006/6/3)

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