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ローマ悲歌/ヨシフ・ブロツキイ

ローマ悲歌
ヨシフ・ブロツキイ(ブロツキー)

My評価★★★★

訳:たなかあきみつ
群像社(1999年3月)
ISBN4-905821-77-0 【Amazon


ヨシフ・ブロツキイ(英語表記ではJoseph Brodsky。フルネームはヨシフ・アレクサンドロヴィチ・ブロツキイ。1940-1996)の詩集。
ブロツキイは、ロシアのレニングラード(現サンクトペテルブルグ)出身の詩人。ソ連体制下の1972年に亡命を余儀なくされアメリカへ渡る。1987年、ノーベル文学賞を受賞。

訳者あとがきによると、本書は12篇のエレジーから成り、1982年に詩集として刊行された。どうやら8月(年不明)のローマ滞在がインスピレーションの源になっているらしい。
英訳『Rimskie Elegii』での12篇の配列は、ロシア語の原詩とはかなり異なるという。配列は固定的ではなく、シャッフル可能と言えるかもしれないとのこと。
本書は、各詩1篇1ページ。前半は邦訳、後半はロシア語の原詩。原詩は読めないので、邦訳の12ページしか読んでいない。

何度も読み返したのだが、まだよくわかっていない。詩を読解するのは難しい。白状するとブツキイの著作はノーベル賞受賞の講演録以外、どれも難解なのでほとんど理解できない・・・。
思ったのは、彼の詩は言葉そのものが秘めているイメージ喚起力、言葉に対するブロツキイの揺るぎない信頼というようなものが感じられたこと。なんと言うのかなあ、言葉でしか表しようのない詩ではないかと思うのだ。もっとも詩とはそういうものなのだろうけれど。

この詩集、なんとなくブロツキイ個人を感じない。確かにブロツキイ本人の目で見たローマ、彼の思索から生まれた詩ではあるが、そこからブロツキイ本人を喚起するかと言うと、そんな感じがまったくしない。それは彼の詩が個人という枠を越えたところにあるからではないのかな。そんな印象がするのだけれど。

訳者はあとがきでブロツキイが様々なパースペクティヴを駆使している、というようなことを書いている。なるほど、<パースペクティヴ>がブロツキイの詩を読み解くためのキーワードかもしれない。
空間と時間のミクロ的視界からマクロ的視界へ、一瞬間での飛翔・変転による時空間と思考の跳躍・・・に幻惑される。古代と現在、永遠とうつろい。だがすべては時の流れに侵食されるのではないだろうか     
うーん、何を書きたいのか自分でもよくわからない。そもそも理解できていないのだからしようがない。以下にどういう詩なのか参考までに1篇挙げてみた。

III(p13)

夏の真昼どき、じりじり焙られている丘陵の瓦。
雲が天使に似ているのは、その飛影のせい。
こんなに果報者の敷石はすらりと脚の長い愛人の
空色の下着と不倫の交わり。私はガラクタの歌い手、
とりとめもない思索や破線の歌い手として、永遠の都市の臓腑に
私は身を隠す、否応なくカエサルたちから
視力を奪いとった発光体(たいよう)から逃れて。
(もうひとつの世界を照らすには
この日射しでは眩しすぎるだろう)。黄ばむ広場。真昼の
昏睡。«ヴェスパ»の持ち主はギヤを苛む。
私はといえば、片手で胸をおさえながら、やや先回りして
生き抜いてきた歳月からもらう釣り銭を指折り数えている。
そして、全ページにわたっていっせいに繙かれる書物よろしく
月桂樹はじりじり焼かれる欄干の上で葉ずれの音を立てる。
コロセウムときたら百眼の巨人(アルゴス)の頭蓋も同然、その眼窩を
雲が漂流しているよ、今は亡き畜群の形見として。


この詩は「生き抜いてきた歳月からもらう釣り銭を指折り数えている」という部分が気に入ったのと、ローマらしさが出ていると思うので引用してみた。また、複数のイメージの奔流から成るパースペクティヴの拡がりが感じられるような気がする詩だと思う。(2004/5/4)

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