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もっとほんとうのこと/タゴール

もっとほんとうのこと タゴール 寓話と短編
ラビンドラナート・タゴール

My評価★★★★

訳:内山眞理子
段々社/星雲社(2002年10月)
ISBN4-7952-6520-8 【Amazon

収録作:鳥の物語/天上界の男の話/妖精のあかし/神の絵/生命と心/歓迎のうた/もっとほんとうのこと/父と子の願い/非望/カブールのひと


インドの詩聖ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)の膨大な作品の中から、訳者がセレクトした日本オリジナル編集。
タゴールは西ベンガル地方コルカタ(カルカッタ)に生まれ、1913年に自作の詩を自ら英訳した詩集によって、アジア初のノーベル文学賞を受賞。
第一義的に詩人だが、音楽家でもあり、インドとバングラデシュの国家はタゴールの作詞作曲なのだそうだ。小説や戯曲も執筆。また、ベンガル地方に学校を開き、教育にも心血を注いだという。

訳者あとがきによると、「鳥の物語」から「歓迎のうた」までは寓話で、1922年刊の作品集に所収。「歓迎のうた」は生命との対話なのだが、寓話というよりは詩に近い。「もっとほんとうのこと」も寓話で、孫娘のために書かれた最晩年の作品集(1941年刊)から。「父と子の願い」「非望」「カブールの人」は短編小説で、30代(1890年代)の作品。「カブールの人」は1892年執筆。

特に寓話に顕著なのだが、ユーモアを含んだやさしい語りの中に深い哲学が込められている。サラリと書かれているがとても深い。
世の中の不条理さを二律相反を描きつつも、たんなる二律相反ではなく、多様性という枠のなかで捉えているように感じられる。相反する物事にどう架け橋を渡すか、どういう見方をするか、というようなことが強く感じられた。
また「非望」や「カブールの人」を読むと、真実は宗教や人種を超えたところにあると、作者は考えているのだろう。タゴール作品を読むのは初めてだが、こうして一冊でまとめて読むと彼の思想が見えてくるような気がする。初めてタゴールに触れるには最適な本だと思った。

もっとほんとうのこと
祖父は幼い孫娘クシュミに、世の中には二つのことがあり、一つは「本当のこと」で、もう一つは「もっと本当のこと」だという。それはクシュミが妖精の国からきた妖精であること、祖父がラクダに乗った旅をし王女と出会ったこと。そこでは、祖父はベンガルの王子だった。
本当かどうかなんて気にしていない、これはもっと本当のことなのだから。もっと本当のことは、見る目をもっていて、じっと見つめていればこの世の中でも見ることができるのだから。

********************

短い話だが、詩人であり哲学者的なタゴールらしい一篇。語り手の祖父はタゴール自身に重ねられているのだろう。これは童話でなく寓話で、童話と思ってしまえば大切なところに気づかないだろう。
この一篇だけを読んでいたなら、ただの童話だと思っただろう。こうして一冊全体を見回してみると、「もっとほんとうのこと」とは何なのかがわかるような気がする。タゴールは第一に詩人なのだと思う。
理想主義的ではあるけれども、そこにアジテーションの気配はない。最晩年の作品だからか、穏やかな雰囲気に包まれた作品。

非望
英国紳士然(訳注によればヤング・ベンガルというそうだ。カルカッタで急進的思想に啓発された(要するにイギリスかぶれの)若者たちのグループ)とした私がカルカッタ通りで出会った女性は、サフラン色の衣を身につけていた。私がヒンディー語で話しかけると、女性はヒンドゥスターニー語で語りはじめた。

女性は父方がデリーの皇帝の血筋を引いた太守の娘で、イスラームの貴人として育ったという。軍隊の司令官は、敬虔なヒンドゥー教徒でバラモンのケショルラルといった。その敬虔さに彼女はうたれ、ヒンドゥー教を信仰したいと願う。
東インド会社と統治政府の戦いが始まったとき、父の太守はケショルラルらを裏切り、イギリス側についた。娘は城を抜け出し、ケショルラルを探し出して帰依しようとするが拒まれる。その姿に娘は、彼こそは高潔なる真のバラモンだと確信する。
そして苦行者となり、ヒンドゥー教を学びながらケショルラルの行方を追って流離う。そうして長い歳月が流れたが・・・。

********************

宮殿で育ったイスラームの娘が、唯一人の男をバラモンと信じ、一人世の中に出てヒンドゥー教徒となる。だが30年という歳月が流れたとき、かつて信じたバラモンの姿はなかった。
この作品のラストはここから先にあり、イスラームの娘が己のすべてを賭してヒンドゥー教に帰依し、最後にはそれらを脱ぎ捨ててゆく。
彼女は、自分を魅了したバラモンへの帰依がただの慣習や風儀にすぎず、それが信仰の本質だと信じてしまったと語る。
宗教というくびきから開放されたとき、彼女は真のバラモンとなる。それこそが信仰の本質なのだと作者は語る。こう言うと語弊があるかもしれないが、真の信仰は宗教という形を超えたところにある、ということではないだろうか。

カブールのひと
私が執筆する傍らで遊ぶ5歳の娘のミニは、窓の外を通る行商人のカブリワラ(訳注によると「カブールの人」意で、アフガニスタン出身の行商人のこと。なかには高利貸しもいて、容赦ない取り立てで怖がられたという)を呼び止めた。
それから二人は仲良くなり、カブリワラは暇をみつけてはミニに会いにやってきた。カブリワラの名前はロホモトといった。
妻はカブリワラを信用しておらず怖がっているが、私は意に介さなかった。そのロホモトが帰国を直前に事件を起こし、服役することになった。

歳月が流れ、ミニの門出の日に、出所したロホモトがミニに会いにやってきた。私はロホモトを疎んじて帰そうとするが、ロホモトがミニに会いたがる理由を知り・・・。

********************

ロホモトの無情に過ぎ去った歳月に気づいたとき、語り手である私は彼の心情を理解する。国や人種が違っても、父親としての気持ちは一緒なのだ。そこに気づいたとき、ロホモトを信じようと思ったのだろう。
信じることで、人種を超えて触れ合うことができる。しかしそれは大人の場合であり、子どものミニは国や人種に頓着せず、無邪気に仲良くなることができる。
ところが大人になればミニの母親のように、根拠のない不安に駆られる。人種の違いが不信感を抱かせている。子どもと大人の反応の違い、そこに作者の思想が込められているのだろう。(2008/2/20)

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