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山猫/トマージ・ディ・ランペドゥーサ

山猫
トマージ・ディ・ランペドゥーサ(ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ)

My評価★★★★★

訳:小林惺
岩波文庫(2007年3月)
ISBN978-4-00-327161-2 【Amazon
原題:IL GATTOPARDO(1958)


ヴィスコンティ監督の映画『山猫』の原作。
1861年のイタリア統一(リソルジメント)の一年前のシチリア。スペイン・ブルボン家による両シチリア王国が滅亡し、統一に揺れる1860年5月。シチリアの人々はガリバルディ軍の上陸に動揺する。シチリアの名門貴族サリーナ公爵家の当主ドン・ファブリーツィオも、シチリアの行く末を推し量る。しかし彼は、どうなろうともシチリア人はシチリア人でしかなく、サリーナ家はサリーナ家でしかないと考える。

ドン・ファブリーツィオは、孤児となったファルコネーリ家の甥タンクレーディの面倒を看てきた。そのお気に入りの甥は、改革派に飛び込んで行く。タンクレーディは、ドン・ファブリーツィオの娘の一人コンチェッタに想いを寄せており、コンチェッタも彼のことを想っていた。
しかしコンチェッタの山猫(=ガットバルド。サリーナ家の紋章)的気質が、二人が親密になるのを妨げる。タンクレーディは新興階級の娘アンジェリカと出会い、二人は婚約する。

映画ではアンジェリカが社交界デビューする舞踏会の場面で終わるが、その場面は原作では1862年11月の第6章になる。原作はまだ続きがあり、1883年第7章のドン・ファブリーツィオの死を経て、20年後の1910年5月の第8章、老いたサリーナ家の三姉妹のうち、コンチェッタとアンジェリカのエピソードで幕を閉じる。
イタリア統一戦争と、貴族という旧勢力と新興階級による新勢力の交代を経て、約半世紀にわたりシチリア一の名門貴族サリーナ家が滅亡へ至るまでの過程が描かれている。

********************

イタリアのストレーガ賞受賞作。原著はランペドゥーサの死の直前に完成したが、紆余曲折を経て没後に出版された。
邦訳はすでに河出文庫から佐藤朔の訳で刊行されているが、あちらはフランス語からの重訳なのだそうだ。本書は初めてのイタリア語原典からの翻訳。
河出文庫版とポイントとなる箇所を読み比べてみると、本書の方が断然いい。物語が醸し出している陰影や深み、密度がかなり違うんですよ。肝心な箇所の解釈も微妙に違う。また、河出文庫版は重訳だからか、登場人物の個性が薄まっている印象を受ける。この作品を理解するには、岩波文庫版で読むべきだと思う。

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896-1957)は、シチリアの由緒ある名門貴族パルマ公爵家の出身。ランペドゥーサ家は、両シチリア王国で代々宰相を務めた家柄なのだそうだ。主人公のドン・ファブリーツィオのモデルは、作者の曾祖父の公爵だと言われているという。
シチリアの名門貴族の作者が、シチリアの名門貴族を描いたところが重要。貴族、しかも名門出身でなければ書けない小説だからだ。現代人がどれほど想像力を逞しくしたところで、決して書くことのできない作品ではないだろうか。

ヴィスコンティは見事に映画化してみせたが、彼も名門貴族出身だから、共感するところがあったろうと思われる。
映画では延々と続く舞踏会(完全版では全篇の約3分の1ほどを占める)で終わるが、原作を読んでみて、改めて舞踏会の場面にすべてを凝縮させ表現し得たヴィスコンティの手腕に感服。ヴィスコンティ以上にこの原作を映像化できる人はいないんじゃないかな。

ドン・ファブリーツィオは、社会情勢が激変しても、あくまでも大貴族として振舞う。自身がサリーナ家最後の名門貴族であることを自覚した上でだ。いや、シチリア最後の名門貴族と言った方がいいかもしれない。甥のタンクレーディも娘のコンチェッタも、もはや名門貴族とは言えないからだ。

ドン・ファブリーツィオの態度は、彼が頑固というのではなくて、貴族ゆえの態度だ。彼は進取の気風の持ち主で、新勢力や新興階級が台頭するのを認めてはいる。だが、時に彼が自分自身に嫌悪感を抱くのは、優美さに欠けるからだろうと私は想像するのだが。
彼は社会情勢や政治に、積極的に関わりを持とうと思っていない。なぜなら彼は貴族であり、貴族として振舞うことが彼のアンデインティティなのだろう。

サリーナ家付きのピッローネ神父は、公爵ドン・ファブリーツィオを挙げて、貴族の生態とその精神性を語ってみせる。つまり「貴族という存在は何なのか」と。こうしたところまで踏み込んで内面から描写できるのは、貴族の作者ならではだと思う。
ついでに言えば、家具とか服装など細かい部分の描写がかなり多い。これは作者の趣味なのかもしれないが、そうしたこだわりが名門貴族を構成している要素であることがうかがえる。

映画ではヴィスコンティらしく、「滅びの美学」的なムードが濃厚だが、原作はちょっと違うように感じる。まず、物語の陰影が豊かなのだ。
確かに滅び行くシチリア王国とサリーナ家の滅びの物語ではあるのだが、第7章で死を迎えた際のドン・ファブリーツィオと、8章のラスト、つまり本書のラスト一文が映画とは完全に雰囲気を異にしている。滅びではあっても、肝心肝要な箇所では悲嘆や悲痛さ、沈鬱といった感じはなく、逆に開放感があり、不思議と晴れやかな印象さえ受ける。「滅びによる開放」と言ったところだろうか。そこから、私は彼の生命力の鮮やかさを感じるのだが。
この印象は全篇と矛盾するものではないと思う。常時ドン・ファブリーツィオの目を通して描写される作者の死生観そのもので、たぶん作者は死から生を観ているのだろう。

起伏に富んだ展開とは言えないし、ドラマティックとは言い難い。エキサイティングなものを求める10代、20代のときに読んでいたら退屈したんじゃないかな。ある程度の年齢になったからこそ、ドン・ファブリーツィオを完全に理解はできなくても、許容できるようになり、感じるところがあるのだろう。
リソルジメント期のイタリアを舞台にしているので、万人の現代人に受け入れられるかどうかわからないけれど、私は名作だと思う。20世紀イタリアを代表する小説といわれるのに納得。その一端には翻訳の良さもあると思う。(2009/1/19)

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