スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

サハリン・ニヴフ物語/V・サンギ

サハリン・ニヴフ物語 サンギ短編集
V・サンギ(ウラジーミル・サンギ)

My評価★★★★

訳:田原祐子
北海道新聞社(2000年1月)[絶版]
ISBN4-89453-060-0 【Amazon

収録作:ティングライ/源流にて/トナカイ飼いと息子/青い山脈/初めての射撃/イズギン


ウラジーミル・ミハイロヴィチ・サンギ(1935年生まれ)は、ニヴフ民族の著名な作家なのだそうだ。ニヴフは口承文芸のため、書き文字をもたない。サンギは収集した口承文芸をテープに録音し、大切に保管しているという話がある。

<ニヴフ>とは何かというと、訳者あとがきによると、ニヴフとは「人間」という意味。アムール河流域とサハリン(樺太)に居住する少数民族で、他の民族からはギリヤークと呼ばれているという。
人口2,200人(1979年、ソ連の統計による)。現在では近代化されているが、伝統的な生業はクロテン、キツネ、熊などタイガの獣の狩猟と、トドやアザラシなどの漁猟、川のサケ、マスを獲って食料や衣服の材料にしていたという。
本書の冒頭にはサハリンの風景写真と、戦前のニヴフの生活を写したモノクロ写真、衣装や民具、ヤランガ(チュクチ人のトナカイ皮製テント)の写真などが収録されている。

苛酷な気候風土で、狩猟・漁猟に頼って生きる人々。天候が悪化すれば食料の調達はままならない。このような土地では、ちょっとしたミスは命とりになるだろう。人々は狩猟・漁猟に生きることの歓びを見出し、自然の恵みを讃えるとともに、苛酷さに打ちひしがれる。
自然から得られる歓喜、生きるための力強さ、と同時に生きることの厳しさへの愁い。そしてニヴフであることの誇りなど複雑な想いが感じられた。

ティングライ
犬ゾリ競争で、ティングライ率いる犬ゾリ隊は負け知らずだったという。私は伝説のティングライの話を求め、タイガを越えてサックヴォングン一族へ会いに行く。この一族こそ、ティングライを育てた最初の飼い主だという。
一族のシャーマンは語る。ト・ラフ(冬小屋)に、足の不自由な男と家族が暮らしていた。ある年、正体不明の野犬が部落のニョ(納屋、食料を貯蔵する小屋)を襲う。その後、足の悪い男のメス犬に、何匹かの仔犬が産まれた。
男の息子はまだ少年だったが、生まれた犬で犬ゾリ隊を持つことを夢見ていた。ティングライは並外れた犬に成長し近隣に勇名を知らしめたが、男がケガを負ったために手放さざるを得なくなる。

********************

ニヴフの口承文芸には二種類あり、<ティルグル>は言い伝え・伝説・民話。<ヌガストゥル>は叙事詩の形をとった歴史物語だという。ヌガストゥルでは、主人公は名無しで、メンヌガヌック(われらが人物)とだけ呼ばれる珍奇な旅の物語とのこと。ここで語られているのは、ティングライのティルグル(言い伝え・伝説)となる。

伝説の犬ティングライと、最初の飼い主であった少年の物語。哀しい話なのだけれど、感情を露にせず淡々と語られる。犬と少年の物語というと、両者の交流を描いた話が多く、犬を人格化しているように感じられることがある。ここでは両者の交流はあるのだけれど、ティングライの人格化まではしていないようだ。
たぶんコルホーズ以前の話なのだろう。このような風土は、弱者が生きるには厳しすぎる。肉体的・体力的に弱い者は食料を確保することが出来ずに、飢餓や貧しさに苦しむことになる。

源流にて
ポルーンは、サハリンに最初に渡ってきた氏族の一つ、ケヴァングン族の最後の一人。かつて許婚がいたが、大氏族にとられてしまった。天涯孤独の老人となったポルーンだが、密猟者からサケマスを守って無事に産卵が終わるよう、頻繁に産卵場所へ赴く。
老人は岸辺に座り込んで、ジッと考えに耽る。彼は産卵に何を視ているのだろう?冬、産卵を済ませたサケマスはとうに死んでいるはずなのに、老人は一尾のサケを見た。

********************

ニヴフはロシア人によって、ジャガイモを植えて育てることを覚える。多くのニヴフは畑仕事を覚えるが、ポルーンはこれまでの魚獲りと狩猟の生活を続ける。その老ポルーンの生活と、彼の人生での悔い、何かをやり残したのではないか、という気持ちが語られる。その気持ちが、サケマスの産卵を守ろうとさせる。
実際にはポルーンは産卵に関与できないのだが、見守ることによって次代に何かを残した気分になるのだろう。しかし、それは幻想でしかないこと、そして彼が氏族最後の一人であることを思い知らされる。
孤独と老齢     
老いたからこそ、なお孤独が身にしみるのだろう。それはわからなくはない。でも、悪いわけではないのだが、ページ数のわりには結末がちょっとありきたりかな。

トナカイ飼いと息子
ツンドラのソフォーズ(国営農場)のトナカイは、蚊の大量発生によって壊滅に瀕していた。エナカイ飼いの班長エムゲチェンは、救援を求めて町へ向かう。
町では彼の息子エジリベイが、勉学に努めて優等生となり、国立大学へ進もうとしていた。息子はツンドラのことはあまり知らない。トナカイのことも。そしてエムゲチェンには息子の考えていることがあまり理解できない。
エムゲチェンは飛行機かヘリコプターでトナカイを移動してもらうよう頼むが、まともに動く飛行機もヘリコプターも無いと言われる。
ツンドラへ戻ったエムゲチェンは、必死になってトナカイを救おうとするが・・・。

********************

ソ連邦下での物語。エムゲチェンは災厄を予想していたが、畜産技師の言うとおりにしてしまったために、トナカイが壊滅状態に陥る。おそらく畜産技師はツンドラの人ではなく、中央から派遣されてきたのだろう。
ツンドラに住む人への物資や手紙(文字がないため、音声をテープに録音し、レコーダーで聴く)は、飛行機かヘリコプターによってもたらされる。
エムゲチェンの息子エジリベイの話では、ニヴフ語のアルファベットを使っているところがあるという。ニヴフ語以外にも民族語を習う中学校があるという。しかし肝心のニヴフの生活は、特にツンドラに住む人の生活は、中央から見捨てられているかのようだ。

作中にヤクート(サハ)共和国のユカギール人の男が登場するが、彼はツンドラでの魚獲りや狩猟生活を捨てて、町で荷役に従事している。エムゲチェンには男の生き方が気に入らない。たぶん民族を捨てた男とみなしているのではないだろうか。
貧しくても、ツンドラがあり、トナカイがいてこそのニヴフ民族だからだ。貧しさよりニヴフであることを選ぶ。それは自分たちは何者であるのか、ということを認識した上でのことに違いない。ロシアという多民族性の複雑さ、大地そのもの複雑さを感じた。

青い山脈
若い頃、青く聳える山々に憧れていたクルランだが、一度も行ったことがないまま、猟師を引退した。
クルランは熊撃ち猟師の腕は部落一で、彼の右に出る者はいなかった。夏の初め、部落の牛やコルホーズ(集団農場)の馬が次々と熊に襲われた。巨大な足痕の特徴から、クルランは八年前の熊だと知る。その熊を仕留める腕を持っているのは、引退しているクルランしかいなかった。

********************

この作品集中、雰囲気の異なる一篇。神話的というかな、そんな雰囲気がある。そんなふうに感じるのは、冒頭の出だしとラストでの空間的な拡がりにもよるのだろう。
はるか遠くに聳える山々に憧れる男クルラン。クルランは熊撃ち猟師として名を馳せ、老いて引退した。そのクルランが宿敵と対峙する。
彼の息子はロシアのヴォルガ河に埋葬されている。ヴォルガ河は第2次大戦時での独ソ戦の激戦地だという。

初めての射撃
私が8歳になった日、父や村の男たちは戦場へ駆り出された。ソ連としてドイツ軍と戦うためだった。村には年寄りと女子どもが残された。14歳のアキ(兄)は作業班へ加わって魚獲りをするが、魚は供出されてしまうので、村人の口に入ることはまずない。
私は祖父から教わり魚釣りをする。しかし飢えが続き、私は父の猟銃を手にする。父のいない今、銃を使う者も、猟に出る者もいなかった。これまでは木の枝を銃に見立てて遊んでいたが、初めて本物の銃を手にし、水鳥を求めて沼地へと向かう。

********************

私はこの短篇がいちばん気に入った。作者はどの短篇でもラストの数行をキメているのだが、この話のラストが一番ピシッとキマっている。特にラストの一行だ。
ラストでは、初めての猟から戻ってきた8歳の私に対して、祖父の言うセリフがある。ほんの数行に、急いで大人になれなけばいけなかった私への、誇らしい気持ちと悲しみが込められている。さりげ0ないセリフだからこそ胸に沁み、もの哀しい気分になる。
ところで、作者の意図はわからないが『トナカイ飼いと息子』と同様に、この短篇もソ連体制批判と受け止めることができる。この作品がいつ発表されたのか一切情報がないのでわからないが、ソ連下では難しいだろうから、ソ連崩壊後なのかな。

イズギン
イズギンの家は元は村の真ん中だったが、コルホーズによって高台に新型住宅が建てられ、いまではポツンと取り残されてしまった。
イズギンは老練な猟師でもあるが語り部でもあった。モスクワから教授が詩人とやって来て、ニヴフ語や習慣を収集していたとき、イズギンは初めこそ詩人を無視していたが、やがて詩人相手の昔話を語ことが楽しみになった。

イズギンはいまでもアザラシ猟をするが、老いてこの先遠出ができなくなることを悟り、いまのうちに雄ギツネに会いに行こうとする。それは非常に高価な毛皮のギンギツネで、他の猟師に捕まらないよう、イズギンがそっと守ってきたキツネだった。
その雄ギツネも、イズギン同様に老いていた。老いた雄ギツネを、これまた老いたイズギンが撃ち取ろうとする。
高価なギンギツネの毛皮があれば、老後はラクに暮らせるだろうし、彼が最高の猟師であることを世間に知らしめることができる。しかしイズギンは・・・。

********************

人生の最後を飾るために、雄ギツネを撃ち取ろうとするイズギン。そこでイズギンは何を視るのか。それは、たとえ老いてはいても「命」であり「生きる」ということだと思う。そういったことがイズキンとキツネとの交流ではなく、あくまでもイズギンの側から語られる。
人が動物に真実感銘を受けるときは、美しさというよりも、そこに「生命」を感じるからではないだろうか。

狩猟からコルホーズへのライフスタイルの変化によって、ニヴフの習慣も伝承も失われてゆくのだろうな、ということが感じられる。
ニヴフは狩猟期の夏と冬ごとに移動して住む家を変えるのだが、漁業組合が結成されてから移動しなくなった。それがイズギンには耐えられない。そのため奇妙な行動をするのだが、村人には理解できない。
村人が理解できないのは、イズギンがあまりにもニヴフ的だからだ。つまり村人はもはやニヴフの慣習を失ってしまったということであり、民族性を失ったということだ。
猟の慣習も失われつつある。イズギンにはそれが腹ただしい。しかし、なかには慣習を守っている者がいることをイズギンは知る。変化はあれども、すべてが失われてゆくわけではない。それは作者の希いなのだろう。(2005/2/8)

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへにほんブログ村 本ブログ 海外文学へ

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

H2

Author:H2
My評価について
=1ポイント
=0.5ポイント
最高5ポイント

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター
検索フォーム
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。