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至福のとき/莫言

至福のとき
莫言(Mo Yan)

My評価★★★☆

訳:吉田富夫
平凡社(2002年9月)
ISBN4-582-83120-6 【Amazon

収録作:至福のとき/長安街のロバに乗った美女/宝の地図/沈園/飛蝗


莫言の中短篇集。『飛蝗(ひこう)』が本書の半分を占める中篇で、他は短篇。作者による、日本の読者へのあとがき有り。
作者自身が触れているが、彼の作品は中国の批評家から、農村を描く「郷土文学」とみなされているという。私も莫言というと、農村を舞台にして農民を描く作家というイメージがある。だがこの作品集では都会を舞台にし、そこで暮らす人々を描いている。
訳者あとがきによるといずれも都会、ないし都市文明がモチーフになった作品、というのが編集のポイント(p374)なのだそうだ。
都会や都市文明をモチーフにしても、そこは莫言のこと、100%都市小説とは言えない。都会が舞台のため一見して莫言らしくないように感じるが、シニカルで乾いた笑いをもたらすところは莫言らしい。
全体的に短編は実験的作品といった感があり、『至福のとき』と『宝の地図』の出来はいいと思うが、他はこの作家としては物足りなかった。なかでも『飛蝗』は、作者自身が消化不良をおこしている感じがした。

至福のとき(師傅越来越幽黙.1999)
不景気のため工場は、工員の大幅な人員削減を決行。43年勤間真面目に勤め、定年まであと一ヶ月だった初老の丁十口(ディン・シーコウ)もリストラされる。
丁十口には子どもはいないが妻がいる。老いた体では肉体労働はままならず、かといって他に糊口をしのぐ手段が思い浮かばず途方に暮れる。
だがある日、丁十口は墓地の外れに廃棄されたバスに、アベックが入り込むのを見て閃いた!それは、これまで生真面目に生きてきた丁十口にとっては後ろめたい子とだった。しかし違法であっても生きるためには背に腹は変えられない。

********************

訳者によると「至福のとき」とは、映画化でのタイトル『幸福時光』を訳したものなのだそうだ。原題は直訳すると「師匠、冗談きついよ」となるとのこと。
ラストでの丁十口(ディン・シーコウ)と弟子の呂小胡(リュイ・シォオフー)の遣り取りは、とぼけた味わいがある。丁十口は、したたかなんだか天然ボケなんだか。憎めない爺だ。
作者によると、この短編はラテンアメリカのある作家の小説にヒントを得たそうだ。たぶんボルヘスではないかなぁと思うのだが、自信はない。でもボルヘスだったら書きそうな気がする。このマジックは、丁十口の罪の意識が生んだ妄想などと考えるとつまらなくなる。そのまま受け止めたほうが面白い。

長安街のロバに乗った美女(長安大道上的騎驢美人.1999)
ラッシュアワーの夕刻。自動車と自転車で混雑する長安街を、裸ロバに乗り極上の絹地の衣裳を纏った美女と、彼女を護衛する剣を下げた白馬の騎士が悠々と歩いてゆく。
候七(ホウチー)をはじめとする帰宅途中の大勢の通行人は、自転車でぞろぞろ後をついてゆく。世にも稀であろう美女の顔をひと目拝みたいがために。美女と騎士はどこへ行くのか?

********************

現代の都心に突如現れた、絵巻から抜け出たような古風な男女。日常にポッと現れた非日常。二人は何者で、何のためにどこへ行くのか?候七(ホウチー)ら大衆は好奇心をそそられた。とともに読み手の好奇心もそそられるのだが、過度の期待をあざ笑うかのような莫言らしいオチが待っている。
ふと、候七と読者たる私はいったい何を期待していたのだろう、と考えてしまう。候七のみならず読み手の好奇心までもが、作者の意中に嵌り手玉にとられてしまったかのよう。

宝の地図(蔵宝図.1999)
バッタリ小学校のときの同級生・馬可(マアコオ)と出会った私は、金のない彼におごる羽目になってしまった。私は飯を喰わせ小遣いをやって、ともかく彼を早く追っ払いたい一心で、目についた万恵(ワンホエ)飯店へと入る。
馬可は神通力をもつ虎のヒゲや、猿世凱の正体はスッポンだということなどを滔々と話し続ける。
店は百歳を越えているような老夫婦がやっている小さな店だった。だが、ただのギョーザ屋ではなかった。やがてギョーザが出来上がるのだが・・・。

********************

冒頭この物語には、初めから終いまで、たったこと言しかほんとのことはない     この物語には、初めから終いまで、ひと言もほんとのことはない。(p101)で始まる。
どこからどこまでもウソっぽい話を延々としゃべり続ける馬可(マアコオ)と、高貴なのか怪しいのか、ナゾのギョーザ屋の老夫婦。結末の見当がつかず、どこに落ち着くのかと思いきや・・・。
物語は漫談とか落語みたいな感じで、語りだけで進行してゆく。最初から最後まで人をくった話なのだが、ニヤリとさせられる。私はこういう巧妙に捩れた話は好きだな。

沈園(沈園.1999)
夏の冷たい雨の中、女は沈園(シェンユエン)へ行ってみたいと、パンショップを飛び出す。男は女を追いかける。
女をタクシーに乗せ、男は行き先を告げる。着いたところは円明園(ユエンミンユエン)だった。女にここがきみの沈園だと告げる。
男は知っていた。沈園という場所は存在しないことを     

********************
男と女はどうやら不倫の関係にあるらしく、女は精神的に不安定なようだ。そんな男女を描いたスナップのような一篇。
作者は、男の臆病さと女の執着と善良さを描いた恋愛小説だという。確かにそうなのだが、うーん。
男が列車の時間を気にするように現実的なのは、本来の自分の生活を守りたいという気持ちからではないだろうか。だが女は違う。彼女は男との関係という現実から逃れ、自分の安らげる場所を求めているようだ。私には弱い男と弱い女の物語に思われる。

飛蝗(紅蝗.1987)
飛蝗(ひこう。イナゴのこと)。高密県東北郷で、50年ぶりに赤イナゴの害が大量発生した。都会の農業科学院蝗虫研究所に勤める私は、調査のために生まれ育った高密県へ帰郷する。そして一族の九老爺(ヂョウラオイエ)と、四老爺(スーラオイエ)と会う。
50年前、空を覆い尽くすイナゴが発生したとき、四老爺は40歳の漢方医、九老爺は36歳だった。そのとき四老爺は、廟を建てさせて蝗を祀らせた。そして女房の姦通の現場を取り押さえ、離縁して里へ送り返そうとしたが・・・。
それから50年後、再びイナゴの害が東北郷を襲っている。我が草食一族の領地を襲っているのだ!私はこの機会に四老爺から、彼と九老爺が50年前にイナゴと戦ったこと。その裏で進行し、いまでも秘匿されている事件の真相を聞き出そうとする。

********************

50年ぶりのイナゴ害を機会に、自らを「草食」定義する一族の凄惨な歴史を、主人公の男が紐解いてゆく。やがて現在と50年前の時間が交錯する。伝奇的な部分もあって、いかにも莫言らしい作品。
だが主人公の分裂症気味な性格が、作品をわかりにくくしている。それだけではないが、いい出来とは思えないなあ。
彼の女性に対するペシミズムさが漂う部分と、カマをかけて四老爺から昔の事件の真相を聞きだしたり、一族の歴史を考察する学者的な態度が、どうにも噛み合わずまるで別人のようだ。
作者は、自身の個人的な恋愛体験が、この作品を晦渋な表現にしてしまったと語っている。主人公の性格には作家としての莫言と、個人としての莫言の想いが表れているのだろう。その点、主人公の登場しない50年前の事件は生き生きと語られ、作者の本領発揮といった感がある。
しかし作者の本領が発揮されているとは思えない。シチュエーションはいいのだけれど、たとえ陰惨な状況であっても、そこから漲る生命力が放射される、といったものが感じられないのだ。(2004/2/14)

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こんにちは

莫言、初めて読みました。もちろん、とても楽しみました。
でも、これは「この作家としては物足りない」ところもあるというわけですね。・・・楽しみが残っているようでうれしいです。

莫言

jacksbeansさん

おはようございます。
「長安街の」に、自転車が出ていたんですね。

莫言は長編から入ったせいか、短編はちょっと物足りなく感じてしまいました。
長編はとっても濃いんですよ。あまりに濃厚なので、私は暑いときには読めないー。読むのに体力を必用としています(笑)。
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