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移民たち 四つの長い物語/W・G・ゼーバルト

移民たち 四つの長い物語
W・G・ゼーバルト

My評価★★★★★

訳:鈴木仁子,解説:堀江敏幸
白水社(2005年10月)
ISBN4-560-02729-3 【Amazon
原題:Die Ausgewanderten:vier lange Erzählungen(1992)

目次:ドクター・ヘンリー・セルウィン/パウル・ベライター/アンブロース・アーデルヴァルト/マックス・アウラッハ


何らかの事情で、故国を離れて異郷で暮らす(暮らしていた)人物について語られる四つの物語。
私と妻のクララは、1970年にプライアーズ・ゲイト荘の部屋を間借りした。屋敷はセルウィン夫人の所有しており、夫の『ドクター・ヘンリー・セルウィン』と女中のアイリーンが暮らしている。
隠居のセルウィン氏は終日物思いに耽っているのだが、ときにポツリポツリとこしかたの出来事を語ってくれた。山岳ガイドのネーゲリとのこと。1899年の7歳のときに、家族とリトアニアから移民してきたこと。

1984年、S町から私に、小学校のときの担任だった『パウル・ベライター』の訃報が届いた。彼は自ら人生に終止符を打ったという。とてもよい教師だったのに、いったいなぜ?
追悼文には、パウル・ベライター教職に就くのを第三帝国が妨げたとあった。私はパウルがどんな人だったのか知らなかったことに気づき、彼の来歴を探ることにした。

ドイツからアメリカへ移住した一族のうち、第一次大戦前に移住していた大叔父の『アンブロース・アーデルヴァルト』ほど成功して尊敬された人はいなかった。
だが大叔父の死について語られることはなかった。1981年、私はアメリカへ飛び、アーデルヴァルト大叔父の足跡を辿る。

1966年、22歳の私は、イギリスのマンチェスターへ移り住んだ。そこで当時50歳ぐらいの画家『マックス・アウラッハ』と知り合い、日曜毎に彼のアトリエで過ごした。
それから三年後に私はイギリスを離れた。1989年、ロンドンのギャラリーでアウラッハの作品に出会った私は、彼に再会するためマンチェスターへ向かう。そして彼の口から、それまで語られることのなかった、彼の人生が語られた。また私は、彼から母親の手記を託される。

********************

訳者あとがきによると、生涯に四作だけ書いた散文作品のうちの二作目の作品になるのだそうだが、すでに『アウステルリッツ』への萌芽が見受けられる。とは言っても、「似たような物語か」と食傷することはない。アウステルリッツを気に入った人は絶対に読むべし!
本作はゼーバルト・コレクション全六冊のうちの第一回配本。以下、順次刊行予定。本作を読んだら次も読みたくなった。

解説が秀逸で、「うんうん、そうなんだよなあ」と頷いた。この解説があるのに、私がいまさら何を語れよう。何も言うことはない。それでは話が終わってしまうので、蛇足ながら私なりに感じたことを。
それぞれ独立した物語なのだが、全篇を通じて一つの長編という感じがする。それは、いくつかのキーワードという共通項のためかもしれない。
語られる四人の人物共通するのは、「故国喪失者」であり「漂流者」であるということ。なんらかの理由で故国から切り離された人たちだ。そうした人物が抱える「記憶」。忘れたくても忘れられない記憶。

故郷も記憶もその人物と切り離すことはできず、その人となりを形成する、あるいは形成してきた大切なものだ。それなくしては、人は根無し草的存在になり、行き場のない思いを抱くのかもしれない。
ところが、どちらも自ら望んで得たものではなく、必ずしも当事者に対してよい出来事ばかりとは限らない。故郷からは物理的に離れることはできる、しかしその記憶を消すことはできない。過去は消すことができない。記憶とは厄介な代物であり、ときにその本人を蝕む。
そこから悲劇が生じるのだが、なんでだろう?各篇ともラストには悲愴感がやわらいでいるように感じらてならない。筋だけ追えば確かに悲劇なのだけれど、では「この作品は悲劇である」と言い切れるかというと、それはできない、絶対に。
もし凡庸な作家が書いたなら、悲愴感タップリで読むのが辛くってしまったことだろう。だが、そうではないのだ。読後は胸がいっぱいで詰ったようになるのだが、悲劇だけが詰っているのではない。そんな単調なものではない。では何かと訊かれても、私のボキャブラリーでは表現するのは難しい。
話の筋とは矛盾するのだけれど、辛さや苦しみそして死から、逆に「生」を強く意識させられた。生への執着が感じられてならない。

私には、本作の読後感を言葉にするのは非常に難しい。そもそも、作品そのものが言葉の限界を意識されて書かれているように思われてならない。言葉はそれぞれに特定の意味に規定あるいは限定されてしまう。でも人間の感情は複雑なので、そんな簡単に表現できるものではないだろう。
ましてや書かれていない余白の部分が多いのだ。余白にこそ本当の意味があるように感じられてならない。
これは私だけかもしれないけれど、ラストで物語が雲散霧消するような印象が拭えない。物語がすーっと消えていくかのように感じられてならないのだ。
何も残らないわけではない、胸がいっぱいになるのだが、この読後感、胸に詰った気持ちをどう表現すればいいのだろう?それを解説者のように「幸福」と言うのは、私には抵抗があるけれど、満たされるような気持ちになったのは確かだ。
話は変わるが、軽やかに現れては消える蝶男とは何なのだろう。地上(現世)から解放された存在なのか?いずれにせよ、蝶男には何らかの幸福的なイメージが込められているように感じられる。(2005/11/5)

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