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グリーン・ノウの川/ルーシー・M・ボストン

[グリーン・ノウ物語3]グリーン・ノウの川
L・M・ボストン

My評価★★★★

訳:亀井俊介
挿画:ピーター・ボストン
評論社(1970年7月)
ISBN4-566-01002-3 【Amazon
原題:THE RIVER AT GREEN KNOWE(1959)


長旅に出たオールドノウ夫人から、夏の間グリーン・ノウを借りた二人の老婦人。一人は、先史時代に恐竜などの巨大な動物だけでなく、巨大な人間もいたであろうことを研究しているビギン博士。食べることを楽しみにし、料理を作るのが大好きなミス・シビラ。

ピギン博士の思いつきによって難民の子どもたちが招かれ、夏をすごすことになります。やってきたのは、父親をロシア軍に殺されてポーランドから亡命したオスカーと、ビルマから脱出した中国人のピン。
ピギン博士の姪アイダを加えた子どもたちは、毎日カヌーを操り、水郷を探検して自分たちの地図を作ることにしました。
子どもたちは探検によって、親とはぐれた白鳥の子ども、誰にも見つけられない川の奥で生きる世捨て人、ねずみのようになってしまったオスカー、月の魔法によって現れる狩人たち。そして巨人テラックとの出会います。
時々ちょっぴりケンカしながらも、あるときは楽しく、あるときは不思議に満ちた時間を過ごしました。でも、大人たちの反応は     

********************

シリーズ3作目。今回はオールドノウ夫人は登場しませんが、その代わりにビギン博士とミス・シビラという二人の婦人が登場します。
ビギン博士は研究に忙しいため、ミス・シビラは食事の時間を守ること以外、子どもたちに干渉しません。そのため子どもたちは自由に過ごすのです。カヌーを操って川を探検する子どもたち、それだけでワクワクしちゃいます。
現実にはどうなのか知りませんが、このような物語の成立する環境がある、というところがイギリスらしいなと思います。
1950年代の日本で、子どもたちが川を冒険する物語が成立するかといえば、地形の違いもあるでしょうが、そもそもそんな発想がないんじゃないのかなあ。私が知らないだけで、そうした物語があるのかもしれないけれど。

子どもたちに屈託がないかというと、そうではないんですよねえ。
オスカーとピンは祖国を追われた難民で、辛い過去を背負っているのです。彼らは自分たちが難民であることを強く意識しており、同じ難民を気遣います。
また、社会での居場所を失った世捨て人は難民といえるかもしれません。巨人は難民といえるでしょう。巨人テラックは社会と関わりながら、自分の居場所を築こうとしているのではないでしょうか。
子どもたち同士、必ずしも意志の疎通ができるわけではなく、ときに噛み合わなるんです。でも、どちらが正しいとか悪いとかいうのではなく、自分とは考え方が違うということを理解しているからではないでしょうか。
根底には「個人」という意識があるのだと思います。個々人別々の考えをもっていて、その上で信頼関係を築いている。
こうした考え方はとても西欧的で、日本人の不得意とするところではないでしょうか。日本の小説ではあまり、というよりも、ほとんど見られないですから(これも私が知らないだけかも)。

ビギン博士はその勇ましさで子どもたちの尊敬の念を勝ち取るのですが、そのビギン博士でさえ目にしているものを理解できず、子どもたちから「おとなってどうしようもないものなのよ」と思われてしまいます。
博士のようなことは現実に私たち大人が陥りやすく、知識や経験からすでに結論が導き出されていて、それに沿わなければ真実であっても目が向かないんですよね。なかでも学者に顕著に見受けられます。

などと読んでいくと、とても現実的な面が見えてきて、そのことがこの作品をたんなる冒険物語以上のものにしているではないかと思うんです。(2008/1/31)

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