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メトロポリス/テア・フォン・ハルボウ

メトロポリス
テア・フォン・ハルボウ

My評価★★

訳:前川道介
創元SF文庫(1988年12月)
ISBN4-488-55001-0 【Amazon
原題:METROPOLIS(1926)


七色の花火が夜空にヨシワラの文字を描き、サーチライトが煌き飛行機が発着を繰り返す機械都市メトロポリス。
都市の中心部には、五千万人都市を睥睨する<新バベルの塔>があり、地下鉄から人々が塔の工場へ吸い込まれ吐き出される。
人々は、塔の中枢にありメトロポリス機能させる<パーテル・ノステル・マシン>に仕える。これらすべてを、ヨー・フーレデルセンが支配し都市に君臨している。

ヨー・フーレデルセンの息子フレーダーは<息子たちのクラブ>で怠惰に暮らしていたが、ある日、父親の人間性を否定したやり方に疑問を抱く。塔を飛び出した彼は、人々をなんとかしたいと願う。
フレーダーを変えたのは、マリアという女性の出現によってだった。都市の地下深くには古い洞窟が縦横に張り巡らされており、そこでは機械とフーレデルセンに不満を抱く民衆が集っていた。民衆をなだめ、破壊と殺戮を回避して、自由になる機会を待つよう説得しているのがマリアだった。
フーレデルセンを憎むロートヴァングは、マリアを攫って彼女ソックリのロボットを作った。ロボットは民衆を扇動して、都市の崩壊に導く。

********************

フリッツ・ラング(1890-1976)による映画『メトロポリス』(1926,ドイツ)の原作。
巻末に、訳者による「映画『メトロポリス』について」が収録。少し長くなるが、本作を知る上で必要と思われるので紹介。
これによると、フリッツ・ラングはユダヤ系のオーストリア市民に生まれ、後に映画監督となる。彼はスポンサーとニューヨークに渡り、ハリウッドを見学。このときのニューヨークが、映画『メトロポリス』を制作するキッカケになったといいます。
彼は妻テア・フォン・ハルボウに意見を求め、彼女がシナリオを担当。ラングは1934年、ヒトラー政権下での迫害によってアメリカへ亡命。

テア・フォン・ハルボウ(1888-1954)はバイエルンに生まれ、ベルリンで文筆業に。1920年にラングと結婚。しかしナチが台頭すると離婚して仕事だけの付き合いとなり、ラング亡命後も第三帝国に残ったのだそうです。
彼女が執筆した小説は万単位に売れたが、ラングによって映画化された『メトロポリス』と『月世界の女』以外、今日顧みられるような作品はないとか。

映画『メトロポリス』について、スペインのルイス・ブニュエル(1900-1983)監督は、物語としては皮相なセンチメンタリズムと危険な折衷主義と勿体ぶった象徴主義を混ぜあわせ、これにたっぷり恐怖のシーンを加えた腹立たしい代物だが、これはシナリオの責任である。だがこと映像の美しさにかけては、われわれシネマディクトの夢想をすべて適えてくれる。(p357)と、シナリオを批判し、映像を褒めています。
イギリスの作家H・G・ウェルズ(1866-1946)もシナリオに関しては似たような意見ですが、映像に関しては「素晴らしい可能性の浪費」というような意味で酷評しています。
両者に共通しているのは、シナリオの「センチメンタリズム」と「思想性」という点でしょうか。
ともあれ、映画で観るべき箇所は、ストーリーではなく映像にあるようです。なかでもアンドロイドのマリアは、映画史上もっとも美しいアンドロイドといわれるほどだとか。

酷評されたシナリオの小説が本書になるわけですが、これはひとえに原作者に問題があるのだと思います。私ももったいぶった象徴と大仰な表現センチメンタリズム、さらには非難されるのも当然であり非難しない方がおかしいと思う危険な思想性に辟易させられました。
ただ、困ったことに魅力が全くないわけではないんですよねえ。メトロポリスというわりに、H・G・ウェルズが批判したように新奇のアイディアはないのですが、怪奇色と東洋趣味が混ざった個々のアイディアは、古臭くて意味がよくわからなくても魅力の欠片はあるんです。
今日のテクノロジーからすれば、メトロポリスとパーテル・ノステル・マシンはとても古臭い。このマシンがどうやって都市の機能を担っているのかなど、科学的な事柄は全くわからないし、とても大雑把に書かれています。また、人々がなぜヨー・フーレデルセンと機械に服従するのか理解できませんでした。

作中のテーマとなるのは「頭(ヨー・フーレデルセン)と手(労働者)が、互いを理解するために、心臓(仲介者)を必要とする」こと。つまり、支配者と被支配者の関係を改善するためには、仲介者が必要とされるという意味。ここまではいいんです。でも、あまりにも安易な結末に憮然とさせられました。
支配者と被支配者、言い換えれば独裁者の主人と、主人に絶対服従しなければいけない奴隷的なまでの主従関係、両者の階層間の軋轢に関して、全く答えになっていません。
社会的に解決されるべき階級差別や人権問題、労働問題を、親子関係の問題にすり替えているところがあります。
さらには、フーレデルセンは辛酸を舐めてきた民衆に対して「心を入れ替えたから許せ」と、鶴の一言をいっているようなもの。

心を入れ替えるのはいいことですが、被支配者の意見が汲み取られることなく対話もなく、フーレデルセンという個人の感情に左右されるわけです。結果として、フーレデルセンが独裁者であり支配者であることになんら変わらないわけです。
支配階層と労働者階層をどうつなぐのかが問題となってくるのですが、それを「心」(「お互いが歩み寄る」という意味だと思います)だけに求めるのは、あまりにも安直。「歩み寄るためにはどうすればいいのか」が問題なのです。しかし物語を読むと、根本的に作者は階級社会を容認しています。そのため立ち位置が曖昧なこともあり、思想といえるほどには熟考されておらず、甘さが出てしまっているのだと思います。(2005/11/14)

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