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三つの小さな王国/スティーヴン・ミルハウザー

三つの小さな王国
スティーヴン・ミルハウザー

My評価★★★★★

訳:柴田元幸
白水社(1998年4月)
ISBN4-560-04651-4 【Amazon
原題:LITTLE KINGDOMS(1993)

収録作:J・フランクリン・ペインの小さな王国/王妃、小人、土牢/展覧会のカタログ-エドマンド・ムーラッシュ(1810-46)の芸術


収録作の三篇は、順に漫画、物語、絵画を扱っていて、現実と非現実性が巧妙に溶け合っていました。ここでの非現実は想像力の産物で言わば空想なのですが、空想は現実からしか生まれないと言っているかのようであり、現実から抽出されていると思いました。
非現実性というと不条理と思われがちですが、ミルハウザーの世界は不条理性ではないような。もちろんフィクションであるから、不条理さがまったくないわけではないのですが。だからと言って、不条理=非現実というわけではないと思うんですよ。
現実の隙間に潜んでいる靄々と言葉や形にならないもの、それらを通して現実から自我を解放すべく、才能と技能によって緻密に構築された一つの世界、一つの小宇宙という感じです。
読む側としては、作者がルーペや顕微鏡で開示したミクロの世界を、傍から覗き見ているような感覚に襲われました。
三篇ともに共通するのは、主観と客観が入れ替わることと。そして、初めはバランスがとれているように思われるのに、実は脆く危うい4人の関係だということ。4人という人数へのこだわりは何なのだろう。

J・フランクリン・ペインの小さな王国(The Little Kingdom of J.Franklin Payne)
1920年代のニューヨーク。ジョン・フランクリン・ペインは、オハイオでの少年生活にインスピレーションを得て、新聞漫画家として活躍。仕事の傍らアニメーション製作に没頭する。彼は4分のアニメのために4千枚もドローイングする。
親友のマックスは、時間と労力節約のためにステジオへ依頼して分業・効率化することを勧める。だがフランクリンはセルを拒否し、時間の節約なんかしたくないと断る。

アニメは好評を博すが、新聞社の編集主幹クロールは、社の利害に対立するとフランクリンに警告。
妻のコーラはフランクリンの仕事に理解を示さないので、フランクリンが製作に打ち込んでいる間、コーラはマックスと外出。やがてフランクリンとコーラの間に溝が生じる。

********************

冒頭で、ふと机から顔を上げたフランクリンは、思いたって青い闇の夜に屋根を散歩する。ここからすでにググッと惹き込まれた。視覚的効果の高い作品で、フランクリンの描く漫画の細部までクッキリと想像することができました。
視覚化して想像するとわかるのですが、フランクリンのアニメを実現するのは不可能ではないかと思われるんですよ。それは、本来言葉では捉えられない漠とした心象世界だから。不可能なアニメを可能と思わせるのは、作者の筆力、精緻な職人芸の賜物でしょう。

アニメと同様に、どこまでが現実でどこからが非現実なのか、その境界線を引くのは難しい。アニメは間違いなく非現実的なのですが、フランクリンにとっては超現実ではないでしょうか。
背景はスーパー・リアリズムの手法だと思われるのですが、スーパー・リアリズムは結局リアリズムの延長でしかないと私は思っています。フランクリン描く超現実は、「リアルとは何か」というところから発しているのではないのか。
フランクリンのアニメは、視覚に訴えて思考を揺るがし、本来リアルさとは一元的ではないということを追求しているかのように感じました。

王妃、小人、土牢(The Princess,the Dwarf,and the Dungeon)
王と王妃は隠し事をせず暮らしてきた。
賢明な王だったが、あるとき客人の辺境伯と王妃の仲を疑う。王は王妃が不貞を働いているかどうか突き止めようとするが、自分が裏切れたことを確信したいのか、王妃が無実であることを望んでいるのかわからなかった。
誰が何を言おうとも信じられなかったからだ。王は小人を使って、王妃に探りをいれる。

川を隔てた町では、ときには吟遊詩人によって、ときには百姓によって、城をめぐるいつもの物語が語り継がれる。
王妃と辺境伯との物語もあったが結末は様々あり、真実を知る者はいない。一つの結末からまた新たないくつもの物語が生まれ、物語はさらなる物語を生み続ける。

********************

王と王妃と小人、そして辺境伯の関係と交互に、町の人々による城への憶測が語られます。町の人々は城の事件を物語として語り継いでいき、いくつものバリエーションを編み出すのです。城をめぐる数々の陰惨な物語が実際に現在も伝わっているのだから、何故にか人は物語を求めるたがるのですね。
作者は西欧の騎士物語や昔語りを元に、物語がどうやって生まれるのかを描きたかったのではないのかな。そして巧妙に城と町の時間と、町の人々の城への距離を変化させて、様々に視点を入れ換えています。城は町の時間から隔離されていて、王と王妃たちは物語の住人でしかないようにも読めるのです。不思議な印象の作品でした。

展覧会のカタログ -エドマンド・ムーラッシュ(1810-46)の芸術(Catalogue of the Exhibition;The Art of Edmund Moorash(1810-1846))
ムーラッシュの作品を製作年順に追い、ムーラッシュと暮らし、兄の成功に尽くすことを生き甲斐とする妹のエリザベス。ムーラッシュの親友ウィリアム・ピニーと妹のソフィア。4人の関係からムーラッシュの絵に及ぼした影響が語られます。
4人は親密で楽しい一夏を過ごすのですが、やがて複雑な愛憎に囚われてしまう。その最中でもムーラッシュは絵を描き続けるが、モデルの本質を引きずりだした冥い絵だった。そして破滅を欲しているかのような自画像を描く・・・。

********************

ムーラッシュと妹エリザベスの関係は、モデルとなった有名な画家がいるが、名前が思い出せません。その画家の妹もエリザベスのような状態だったとか。
読んでいると実際に絵を観ているのだと錯覚してしまい、ムーラッシュの絵が実在すると思わせられました。だがこの作品はフィクション。
「死の舞踏」という絵は、全面黒の色層で塗られて、よく見ると人影が浮かび上がってくるが常に違って見え、キャンパスという枠組みに捉えられない。これは技法的には困難で、実際に描くとしたらおそらく無理だと思うんです。多重構造的なムーラッシュの絵は、チラチラと揺れ動くフランクリンのアニメに通じていますね。絵というよりはセルと考えるとわかりやすいと思いました。

この作品は伝記的手法で書かれているのですが、伝記というには大きく逸脱しているのです。また、問われているるのは絵や技法そのものではなく、彼の内面世界が何によってどうやって表出するかです。
ムーラッシュにとっては現実のウィリアムより、絵の中のウィリアムのほうが真の姿。ムーラッシュは現実を見据えてはいるけれども、陰に潜んでいるものを暴くわけです。絵画が内面世界の鏡だとしたら、彼の絵は成功と言えるでしょうが、描かれることを望んだ本人にでさえ幸せをもたらすとは限らない。真実を求めこそすれ、目の前に突きつけられたくはないのだから。

備考:2001年7月、白水uブックス化。【Amazon】(2002/1/30)

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