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山村暮鳥詩集

山村暮鳥詩集
山村暮鳥

My評価★★★★

編:藤原定・大江満雄,解説:藤原定
彌生書房・世界の詩40(1966年9月)
ISBN4-8415-0170-3 【Amazon


山村暮鳥(1884(明治17)年-1924(大正13)年)は、詩人・児童文学者。萩原朔太郎や室生犀星などの仲間だそうです。
初期の詩は技巧に走り勝ちで煌びやかな言葉を遣っているのですが、後年は庶民的な日常生活の身辺から題材を得て、飾らない素朴な言葉で綴っていました。後年は、なにげない日常の生活のささやかな生の律動、ささやかな哀しみを綴っているのです。私は若干もの足りさを感じたのですが。
詩の平明さを単純さと捉えたり、諦観的な作風はややもすれば軽くみられがちかもしれません。しかし身辺の中にこそ、虚飾を捨てた等身大の生きる歓びがあるのだと思います。ささやかではあるがその積み重ねこそが大切なのだ、ということでしょうか。

気に入った詩の一つは「星」。夫が満天の星を眺めていたら、子どもを寝かしつけた妻も一緒に眺めた。二人は黙って眺めていた。この間、二人は別々の人間ではなく、同じものを見て同じ感慨に耽っていたのでしょう。でも子どもの泣き声で、また別々の二人になった・・・。
一瞬の一体感は、個々の垣根が取り払われた瞬間ではないでしょうか。しかし、その瞬間は子どもの泣き声で掻き消えてしまう。掻き消えてしまった瞬間こそが、暮鳥にとって、いや多くの人々にとって、求めても手に入らないかけがえのない瞬間なのでは。
手からすり抜けて初めて意識される幸福感とその喪失感が、とても上手く表れていると思います。

暮鳥の詩といえば、やはり「いちめんのなのはな」。この詩は有名だけれど、全文を知らなかったので読んでみたかったのです。この詩は、大正4年に出版された詩集『聖三稜玻璃』中の一篇。タイトルが「風景」ということを、今回初めて知りました。

風景 純銀もざいく(p33~34)

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。


「いちめんのなのはな」と一回ずつ繰り返されるごとに、ぽっと黄色く輝く菜の花が咲くよう。ぽっ、ぽっ、ぽっ、菜の花の灯りがともる・・・。手前に一面の菜の花。その奥にも一面の菜の花。そのまた奥にも。右にも左にも後ろにも、菜の花が、無限に、拡がってゆく。
一見して単純そうにだけれど、とても完成度の高い詩だと思います。詩の可能性と、言葉の可能性を秘めていると思いました。

視覚的効果が優れているのでそこだけに目を奪われがちだけれど、明るくて軽やかで牧歌的なだけの詩でないのが意外でした。
「やめるはひるのつき」の「やめる」とは、「病める」でしょう。病める昼の月、それは菜の花に落ちる一点の影。影があるゆえに、一面の菜の花が引き立つ。光と影のコントラストが際立つ。
一面の菜の花が現実の光景であったとしても不思議ではないのですが、暮鳥にとっては心象風景なのでは。彼は菜の花が拡がってゆくことを幻視しながらも、自分はそれを眺める昼の月に喩えているかのよう。
暮鳥によっての菜の花とは、自身とは一線を画すものではあるが憧れる、手の届かない憧憬のようなものではないでしょうか。(2005/4/5)

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