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クジラの消えた日/ユーリー・ルィトヘウ

クジラの消えた日
ユーリー・ルィトヘウ

My評価★★★★

訳:浅見昇吾
青山出版社(1998年3月)
ISBN4-900845-63-9 【Amazon


夏のツンドラに、動物たちと過ごす少女ナウがいた。
ナウはクジラを愛した。その「大いなる愛」によって、クジラは人間リョウとなった。二人は小石の岬で暮らし、やがて冬が過ぎ、春になり、ナウは子どもを産んだ。子どもはクジラだった。
次にナウが産んだ子どもは人間だった。こうしてクジラと人間は仲間・兄弟になった。

時が経ち、小石の岬は人々で賑わった。しかし人々は老婆ナウの語る、彼女がクジラを産んだこと、自分たちの祖先がクジラで、クジラと人間が兄弟だということを信じなくなった。
思慮深い男エヌはナウの話に耳を傾けるが、彼女の話に疑問を感じていた。しかしエヌは、クジラと人間が仲間である確信を得る。そのエヌは仲間を募り、暖かな土地を求めて旅立つ。
エヌの孫ギヴは、ナウの不死の秘密を解き明かしたいと考える。ギヴは「大いなる愛」を体得したいと煩悶し、やがて誰よりもよくものが見え、誰よりもよくものが聞こえるようになる。こうしてギヴは「聖者」と呼ばれるようになった。

ギヴの孫アルマギルギンは、ギヴの知恵もナウの言葉も信じず、己の力だけをすべてとしていた。
彼とって動物は人間に狩られるものでしかない。力に溢れたアルマギルギンはいたずらにセイウチを狩り、一人でクマを仕留める。
人々は動物を狩り続ける。そのため小石の岬から動物たちの姿が消えてゆき、食糧難に陥る。それでも人々の食欲は果てしなかった。力を持て余し己の力を誇示したいアルマギルギンは、ついにクジラに手をかける。

********************

訳者あとがきによると、ユーリー・ルィトヘウ(1930年生まれ)はシベリア北東部のはずれチュクチ半島に暮らす、少数民族チュクチの出身。
チュクチは紀元前まで遡る民族なのだそうですが、20世紀まで書き言葉がなく、ルィトヘウの生まれた1930年に初めて書き言葉が導入されたのだそうです。
ルィトヘウは人口1万2千人あまりのチュクチ民族初の作家で、チュクチの伝説や生活を元にした作品を発表しているとのこと。本作は1977年に発表。

この作品からは、果してない海の広がりが感じられ、その海は生命の息吹に満ち満ちているよう。
岬には、創世記から生きているかのようなナウ、彼女とクジラのリョウを祖先とする民。人々は自然によって生かされ、自然とともに生きる。しかし時を経るとともに人々は変わってゆく。多くを得ると同時に多くを失ってゆく・・・。それはなぜだろう。
ナウにとって生命の秘密は何もなく、すべて自明の理。あるがままに愛せよ、と言っているかのよう。秘密というものは、理解できないものに対する畏怖心が創りだすものなのかもしれません。恐れと欲望は概ね表裏一体、欲望ゆえの過信は人を盲目にさせる。

単純に言ってしまえば、人間と自然との失われゆく共存関係、自然への讃歌、とめどなく肥大化する人間の欲望といったものが書かれています。どことなく叙事詩風な物語ですが、民族内だけにしか通じない内容だったり、たんなる創世神話で終わっていないのです。
環境破壊ということだけではなく、むしろ自分たちの文化・民族性を失うということはどういうことか、ということへの嘆きではなく「警鐘」のようです。
作者の視線は過去に留まっておらず未来へ向いており、一民族の壁を越えて投げかけるメッセージとなっています。そこには、人間が本来持っている生きる力、私たちはどこから来て何者なのかという問いかけもあるようです。

翻訳ということもあるが、文章は実に平明で飾りがありません。ナウが語る言葉は簡素と言っていいぐらい。でもそこには力強さ、言葉の持つ力が込められているように感じました。(2003/1/27)

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