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海に騎りゆく者たちほか/ジョン・M・シング

海に騎りゆく者たちほか シング選集[戯曲編]
ジョン・M・シング

My評価★★★★☆

解説:甲斐萬里江
恒文社(2002年3月)
ISBN4-7704-1031-X 【Amazon

収録作:谷の蔭/海に騎(の)りゆく者たち/鋳掛屋の婚礼/聖者の泉/西の国の伊達男/哀しみのディアドラ


ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)の1903年~1909年にかけて上演された戯曲。ただし「哀しみのディアドラ」のみ死後に上演。ほとんどの作品に、アラン諸島での見聞が織り込まれている。紀行文『アラン島』の中で綴られている、島人から聞いた昔話や伝承・伝説が、形を変えて作中に活かされている。

巻末に喜志哲雄『アイルランド演劇の流れ』を収録されていて、アイルランドに住んでいるアイルランド人がアイルランド人の観客に提供するアイルランド語の劇がアイルランド演劇だという言い方は、ほとんど無意味である。(p301)
また、解説によると古代ゲール文化の時代から十九世紀末にイェイツ達の運動が始まるまでの長い歳月、アイルランドは固有の演劇を全く持ってはいなかった。(p316)イェイツにしても、戯曲は英語で執筆したという。

では「アイルランドの演劇を創ったのは誰か」という問題になるのだが、そこにアイルランドがイギリスの支配下にあった歴史が深く関わってくるという。
解説によると17世紀頃から英語の芝居の上演が盛んになったそうだ。だが、それは英語の劇であるため、観客はイギリス人となる。イギリス人のための劇ということで、アイルランド人には無縁なものだったという。しかし年月が経つと英語を使用するアイルランド人が増えたので(英語の使用が強制され、ゲール語は禁止されたため、ゲール語が廃れていった)、アイルランド人にとっても全く無縁と言い切ることはできないそうだ。シングやイェイツが求めたものは、アイルランド人のための演劇である。
つまるところ、アイルランド国民演劇運動とは、アイルランドに住むアイルランド人のためにアイルランドを素材とする英語の劇を提供しようとする運動だったのである。(p305)ただし、劇によっては反発を招いて不評だったとか。ともあれ、『アイルランド演劇の流れ』は、アイルランド史そのものと言えるのではないだろうか。

イェイツは題材を神話や伝説に求めたが、シングはアイルランド人の実生活を題材としたと言えるのではないだろうか(「哀しみのディアドラ」は例外だが)。シングが興味を惹かれていたのは、神話や伝説とかではなくて、いま生きている人間、人の業ではないのか。行き着く先が破滅とわかっていても突き進む、そんな激しいまでの生命力が感じられてならない。
シングはアイルランド人たちの陽気さや親切心と同時に、彼らの愚かしさや醜悪さや狡さも描いている。たぶんそれこそが、ありのままのアイルランド人の姿なのだろうと思わせる。だからこそ、いま読んでも作中の人物たちが生き生きとして感じられるのだと思う。

アイルランド人の気質や暮らしは、アイルランドの風土に因っていると思われる。風土をある程度識った上で読むのとそうでないのとでは印象が変わると思うので、『アラン島』を併せて読まれたい。アイルランドに興味があるならば共に読んでおきたい本だと思う。

谷の蔭(The Shadow of the Glen.訳:木下順二)
谷の中の晩、一軒家へ浮浪人(旅人)が宿を求めると、ベッドには百姓で羊飼いの老いた亭主ダン・バークが、シーツを掛けられて横たわっていた。ひとりぽっちで居た若い妻のノーラは、浮浪人に死体の番を任せて、人を呼んで来るという。彼女は若い羊飼いのマイクル・ダーラを連れて来た。マイクルはノーラに、ひと気のない場所を出て一緒に来るように言うが・・・。

********************

1902年に執筆され、翌年初演されたシング初の戯曲。アラン諸島で老人から聞いた物語を題材にしている。木下順二が1956年に訳したものをそのまま収録したという。社会的にも物理的に女性が一人では生きられない時代が背景となっている。
人家から遠く離れた谷の中で暮らし、やがて老い、いずれは死を迎える。閉ざされた谷という環境が、ダン・バークを意地悪くさせたのではないのか。そんな谷をノーラが出て行きたがるのも頷ける。

海に騎(の)りゆく者たち(Riders to the Sea.訳:高橋康也)
船乗りの男手を次々に失ってゆく一家。北の浜に遺体が打ち上げられ、姉キャスリーンと妹ノーラは母さんのモーリアに内緒で、遺品がマイケル兄さんの物であるかどうか確認しようとする。年老いた母さんをこれ以上悲しませたくなかったからだ。だが、最後の男手のバートリー兄さんが海へ出て行く。やがて老婆のキーン(哀悼歌)が響く。

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本書では、唯一アラン島を舞台とした作品。男たちを祝福して送り出す一方で、海が荒れて本島からの便が絶えたら急場に間に合わない。解説によると、島には樹木がないので、常に棺用の白木の板を用意しておかなければならないのだそうだ。
生を祈る側らで死の準備をしておかなければいけないという、海に生きる者たちの矛盾。それは人々にいったいどんな感情をもたらすのだろう。アラン島に生きる人々の哀しく残酷な宿命。だがそれは決して作り事ではなく、現実なのだ。モーリアはもはや何も失うものはなくなった時点で、はじめて安らぎを得る。それがこの悲劇をさらに悲痛なものにしている。彼女のような母親は、実際に存在していただろう。

鋳掛屋の婚礼(The Tinker's Wedding.訳:倉橋健)
放浪の鋳掛屋のセーラ・ケイシーは、神父に頼んでマイケル・バーンとの婚礼を挙げたかった。神父は費用に1ポンドを要求するが、貧しい鋳掛屋にはあろうはずがなく、10シリングとマイケルが作ったブリキ缶でなんとか話をつけた。
ところがマイケルの母メアリは、キリスト教徒のように結婚式を挙げたがるのはバカげた考えだと言う。メアリは、二人が神父に渡すはずのブリキ缶を、こっそりとすり替えてしまった。それに気づかないセーラとマイケルは!?

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本書の中では唯一の喜劇。結婚式も金次第という欲深い神父が、こてんぱんにされる。当時としては痛快だったのではないだろうか。こういった神父の造型に、作者のシニカルな視線が感じられる。しかもシングは、聖職者を多数輩出している家系の出なのだから。

聖者の泉(The Well of the Saints.訳:喜志哲雄)
マーティンとメアリーは盲目だが、自然を肌に感じることで幸せな気分になれ、施しをう受けながら仲良く暮らしていた。二人は周囲から言われ続けていたために、お互いを美男美女だと信じていた。
どんな病気をも治すことの出来る神聖な水で、各地で奇跡を起こしている聖者がやって来た。マーティンとメアリーは目さえ見えれば幸せになれると信じ、聖水のおかげで見えるようになった。ところが、目が見えるようになったことで二人は不仲となり、これまで知らずに済んでいたことを知るようになり・・・。

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これもアラン諸島で聞いた話が元になっているが、元の話とは全く異なる。私は傑作だと思う。本書の中でいちばん作者の人間観察が冴えていると思う。
皮肉の効いた話で、なんといっても第三幕がいい。鍛冶屋ティミー、美人のモリーは善行を施そうとするのだが、マーティンとメアリーにとっては大きな迷惑。ティミーとモリー、聖者には、目が見えないほうが幸せだと言う二人のことが理解できない。善人ぶる人ほど始末に終えない。自分が正しいと信じているため狭量でもある。

西の国の伊達男(The Playboy of the Westem World.訳:大場建治)
山の中の一軒家の居酒屋、夜になって父親が通夜に出かけるため、娘のペギーンが一人で留守晩をすることになった。
そこへ男が現れた。男はクリストファー(クリスティ)・マホーンといい、ドデカイ事を仕出かして西の国から逃げて来たのだと言う。
クリスティは悪辣な父親の脳天を鋤でかち割り、埋めてから逃げて来たが、捕まれば絞首刑だ。その話が広まり、村の男たちや娘たちは、男ぶりのいいクリスティを英雄扱いする。クリスティは様々な競技で優勝。ペギーンはクリスティとの結婚を夢見るが、そこへ死んだはずのクリスティの父親・老マホーンが現れた!

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場所はメイヨー州の荒涼とした海辺の村の近く。岩だらけのさびしい地方なのだそうだ。そこへ西の国から男が現れた。「西の国」というのがポイントで、メイヨーの村人にとっては、西の国は自分たちの州より豊かだと信じ込んでいるのだ。
クリスティは男前だし、しかも家柄は良いと言う。そして実の父親を止むに止まれぬ理由で殺してしまった度胸の持ち主。クリスティは故郷で誰にも相手にされなかったが、村では注目を浴びて英雄扱いされるので、次第に話が大きくなってゆく。
豊かではなく変化に乏しい村に住む人たちにとって、クリスティは見世物であって、一時の刺激剤となる。事件が西の国で起こったのだからこそ、村人たちは想像して楽しむことができる。もし事件が村内で起こったのなら、絶対にクリスティは英雄扱いされないと思う。
ペギーンや村人たちが求めていたのは、本物の犯罪者ではなく、自分たちの生活を紛らわせてくれる一時の夢。その夢が破られたとき、村人たちの態度は一転する。さっきまでの英雄が、次の瞬間には冷遇され疎んじられる。こういったことは現代でもあるが。ペギーンをはじめ村人たちの変化を描いたところが、この作品の深みになっている。

哀しみのディアドラ(Deirdre of the Sorrows.訳:甲斐萬里江)
アルスター王国コナハー王の后となるべく育てられ、美しく成長したディアドラ。しかし彼女には、この世とウシュナの息子たちを破滅させ、自らも小さな墓に入るという予言が告げられていた。
彼女はウシュナの息子ニーシとその弟たちと共に、コナハー王から逃れて森の中で過ごす。7年後、コナハー王は友のファーガスを使者に立て、和解の言葉を伝えてきた。ニーシは帰国を渋るが、コナハー王を信じるディアドラに従う。しかし二人を待っていたのは・・・。

********************

解説によると、シング最後の戯曲『悲しみのディアドラ』は、アルスター伝説群(赤枝団英雄譚)の中でも一際美しい、英雄ニーシと美姫ディアドラの悲恋物語を題材にしている。(p331)とのこと。
名高い悲恋ロマンスなのだそうだ。宿命的な死。行く手には死だとわかっていて、なおも己を突き進めてゆく激しさは何なのだろう。こういった気質は、アイルランド系の作家の本にはわりと多いように思われるのだが。
この作中での宿命は、予言の他に<時>ではないだろうか。ディアドラとニーシは森の中で7年を過ごすが、その間も時は過ぎてゆく。二人とも、いつまでも若くはいられない。いつまでも今のままの関係でいられるとは限らない。ディアドラは過ぎゆく時を憂う。
一方、コナハー王にも時は流れ、老いとやがて忍び寄る死が彼を無情にさせ、ディアドラに固執する。彼らは皆、自ら選んだ破滅による死は恐れないようであり、時による変化や移ろいを恐れているかのようだ。死は自ら選択することが出来る人生やロマンスの完結であるが、時による変化は抗いようのないもの。ゆえに彼らは、破滅であっても自らの意志を貫ける道を選択するのではないだろうか。(2006/5/9)

アラン島

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