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フェルナンド・ペソア最後の三日間/アントニオ・タブッキ

フェルナンド・ペソア最後の三日間
アントニオ・タブッキ

My評価★★★★

訳:和田忠彦
青土社(1997年7月)
ISBN4-7917-5563-4 【Amazon
原題:Gli ultimi tre giorni di Fernando Pessoa(1994)


タブッキの敬愛するポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)が、病で入院し47歳で息をひきとる、1935年11月28日から30日20時30分までの三日間を書いた作品。いわゆる伝記という類いではなく、タブッキらしい幻想的な作品。
巻末には、『本書に登場する人物たち』という、登場人物のプロフィールがあります。

友人たちに付き添われて病院へ行く直前、髭面のまま行くのは嫌だと言い、15年間髭を剃ってもらっている床屋のマナセス氏を呼んでもらうペソア。病院へ行ってそのまま入院するが、友人たちには引き取ってもらう。
真夜中、病床をアルヴァロ・デ・カンポスが訪れた。前衛詩人のカンポスは、ペソアとオフェーリアとの婚約を破談させた張本人だった。
カンポスの後にアルベルト・カエイロが現れた。カエイロは幼くして父を亡くしたペソアにとって、父親ともいうべき人物だった。ペソアの最期を看取るため、入り替わりたちかわり次々と客が訪れる。

********************

タブッキはペソア最後の三日間に、「実生活においてのペソア」ではなく「詩人としてのペソア」を慈しみをもって描き出す。
訳者あとがきからタブッキとペソアの関係を要約すると、タブッキは文学が閉塞感に苛まれていた1960年代初頭にペソアを「発見」したという。そして自ら翻訳紹介し、自身の小説にもペソアあるいはペソア的なる人物やアフォリズムを駆使。
タブッキの作品を読んだことがあれば、タブッキのペソアへの愛着、ペソアへの惜別の書ともいうべき位置付けがわかります。しかし、本作で初めてタブッキに触れた人には意味を成さないであろうから、先に『レクイエム』を読んだ方がいいです。

詩人ペソアは多重人格者だったらしい。彼は複数の人格を持ち、一人ひとりが異名(名前)と詳細な過去をもっている。異名たちはそれぞれの名で、優れた詩作を著していまに遺している。死の床にあるペソアを訪れるのは、これらの異名たちなのです。
ペソアと訪問者=異名たちは、かつての愛情を捨てて感情に激することなく、ともに理解し歩み寄るために訥々と会話を交わす。彼らの姿と対話は、音もなく降る雨が岩に沁みいるように静謐で、誠実さに溢れています。
私が奇妙に思ったのは、看護婦がいるときの病室と、異名たちがいるときの病室の雰囲気が違うように思われること。
前者ではごく普通の病室(個室)なのですが、後者では病室というにはあまりにも静かすぎて、白く漂白された音のない異空間のよう。これはペソアと異名たちの会話のムードからきているのだと思う。彼らの会話や関係は、すべての感情を洗い流したあとのように澱みがない。

本来ならば、異名たちはペソアの頭のなかにしか存在しない。でも、この作品ではペソアと同じ次元に属し、互いに敬意をもって対等な存在として在るように思われます。そのためペソアも異名の一人にすぎなく、ペソアの肉体感・実在感が薄れているような。異名たちこそが実在し、ペソアこそが夢のような存在にも感じられるんです。
夢みているのはどちらなのだろう。"幻覚とか幻想"と言うのではなく"内なる内"なのだろうけれど、この場合の内とは何処なのだろう、どうやって内だとわかるのだろう。
自己というアイデンティティの境界が曖昧な感触の作品のように思われるのですが、そんな曖昧さこそがペソアそのもの、ペソア的なのだろうか。(2002/4/8)

レクイエム

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