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魚の王様(下巻:第2部)/アスターフィエフ

魚の王様(下巻:第2部)
アスターフィエフ(ヴィクトル・アスターフィエフ)

My評価★★★★★

訳:中田甫
群像社,下巻(1984年2月)
ISBN4-905821-14-2 【Amazon

収録作:ボガニダ河畔の魚汁/供養/トゥルハンスクのゆり/白い山々の夢/応答はない


第1部(上巻)はルポルタージュと小説の中間という作風だったけれど、第2部の『ボガニダ河畔の魚汁』『供養』『白い山々の夢』はまぎれもなく小説。この3篇は第1部に登場するアキムが主人公なので、この巻からでも読めなくはないが、第1部から読むとアキムの経歴がよくわかる。
巻末に参考資料として、旧ソ連の文学者や批評家、科学者などによる討論会の議事録を収録。演題は『自然の美について 人間の美について』だが、あまり作品をする理解の参考にはならないと思う。しかし、作者アスターフィエフが旧ソ連でなにをどれだけ注目されていたのか、ということでなら参考になった。
下巻の初版は上巻と同じISBNだが、これはミスだろう。何版かはわからないがISBN4-905821-14-2に訂正されたらしい。下巻からは、これだけでも読んでほしい2篇のみピックアップ。

ボガニダ河畔の魚汁
エニセイ河畔のボガニダ部落で生まれ育ったアキムの幼少時代の物語。極北の地を貫通する大規模な道路建設が予定されており、漁業班は建設現場とともに移動して魚を供給する。そのため定着性がない。
人はいいが節操のない母親と子供たちは『カシヤン一家』は、冬は寒さとひもじさに耐え、春になると野外へ駆け出して河で水浴びをし、冬を越えた喜びを味わいながら気ままに暮らしていた。漁業組合員とともに踊る母親を眺める子どもたち。子どもたちは班の獲ってきた魚を水揚げの手伝いをする。
長男のアキムを筆頭に、子どもたちは班長で義足のキャリーガとカシヤンカの指揮の下、共同炊事場で魚汁(ウハー)作りの準備を始める。魚汁は漁業班の者だけではなく、ボガニダの者全員に分け隔てなく与えられる。ボガニダの住む者にとっては貴重な栄養源で、ボガニダの子どもたちは共同炊事場で育つ。
一家は漁業班ではないが、ボガニダの慣習によって食事を分け与えられていた。ボガニダでは誰の子どもであれ、子どもは大切に扱われるのだ。そして動物も。労働後の満腹とちょっとだけ酒のまわった男たちは、ジョークを飛ばしたりと陽気に振舞う。

だが、ある日一挙に何もかもが一変した。漁業班が去って村は寂れ、他に行き場のないカシンヤン一家が取り残された。秋がきてすぐ冬になるというのに食べ物がない。アキムは腹立ちまぎれに、共同炊事用の釜を叩き割る。そして秋が過ぎ、冬の到来を身近に感じるようになった・・・。

********************

厳寒で苛酷な冬を迎えるシベリヤの地ボガニダ。カシヤン一家は共同体に養われていたと言っていい。魚以外は何もないこの土地では、誰もが助け合い支え合わなければ生きていけない。貧しくとも心穏やかに暮らす人々。それは今では失われた共同体の本質だろう。
漁業班が去ったことで、アキムはある日突然、世間に放り出される。現実では朽ちたバラックの点在する故郷ボガニダ。しかしアキムの想い出のなかの故郷は、苦しみや痛みが完全に消えたわけではないが、哀しいぐらい美しい。
戦前の日本にもボガニダのような慣習があったと聞く。だが戦中から戦後にかけて廃れてしまったらしい。ホガニダでも日本でも、なぜ廃れてしまったのか。作中で「そんな時代と場所があった」としているのは、それ以上の説明は不要だろうからだと思う。

白い山々の夢
狩猟契約に基づいて、トゥルハンスク地方のタイガに分け入ったアキム。彼にあてがわれた猟場は、部落からも冬小屋からも輸送路からも遠く離れた、タイガの奥地の奥だった。必要なだけの食料と荷物を持って小屋に向かったアキムは、食料もなく肺炎で死にかけているエーリャを発見する。モスクワから父のもとに遊びに行く途中だったエーリャは男と意気投合し、二人で各地を旅していた。
だが小屋でエーリャは倒れ、釣りに出た男は戻ってこない。男はゲルツェフといい、エンデ川で溺れ死んでいた。アキムはゲルツェフを知っており、インテリで何でもでき、己の力だけで自然をも屈服させられると信じているような男だった。アキムの看護によって、エーリャは回復する。彼女はゲルツェフの日記を読んで過ごす。

都会っ子のエーリャは、食べ物とは店で売っているか、誰かが作って出来上がった物を与られるものだと思っていて、アキムが猟に出たり毛皮を剥ぐことを「変てこりん」だと言う。だがアキムの持参した食料は一人分しかなく、このままでは冬を越えられない。それに厳寒がくる前にタイガを出ないと、氷雪で出られなくなってしまう。アキムとエーリャは出発するが、寒さ慣れしていない上に完治していないエーリャには負担が大きかった。

********************

ゲルツェフとエーリャは自信に溢れ、何でもできると思っている。夏のタイガならそれでもいいが、冬のタイガは違う。そのため彼らは災難に遭う。エーリャは<タイガの掟>に則って暮らすアキムに救われるが、都会っ子の彼女はアキムの手伝いができない。そもそも自然が苛酷だということを理解できない。
特にゲルツェフは自分自身の内部を見つめ、そこから何かを探り得ようとする。だがアキムは外界から学ぶ。タイガでは都会での感情も感傷も通じない。すべてが剥き出しになるからだ。ゲルツェフとエーリャに対してアキムを配した文明批判だが、まずは「自然は支配するものではない」と考えるべきだろう。

ありきたりの小説なら、男女が二人でいると必ず恋に落ちるのだが、この作品ではラストでエーリャがチラリと匂わせるだけ。しかもそれは恋と言い切れず、生き延びた者同士の絆かもしれないし、アキムに対するエーリャの負債なのかもしれない。(2001/10/26)

魚の王様(上巻:第1部)

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