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ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実/宮元啓一

ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実
宮元啓一

My評価★★★★

光文社文庫(1998/8/20)[絶版]
ISBN4-334-72670-4 【Amazon


伝統的釈迦像の虚構と真実なんとなくわかっているようで、実は何も知らなかった仏教のこと。意外なことだらけでビックリだけれど、面白かった。
ブッダの教え(伝統仏教、小乗仏教)と大乗仏教の違いがよくわかりました。仏教史の初歩的な基本がわかる入門書として、読みやすくてわかりやすい最適な一冊でした。

世界三大宗教の一つ、仏教。その改祖がゴータマ・ブッダ(釈迦)であり、。「ゴータマ」とは、サキヤ(釈迦)族の名門ゴータマ家のこと。ブッダとは「目覚めた人(覚者)」を意味するということぐらいは知っているんです。
でも、ブッダという名称が、仏教の開祖を示す固有名詞じゃなかった、ということは知らなかった。
仏教が成立した当時、聖者はみんなブッダと呼ばれていたんだって。ゴータマ以外にもブッダが大勢いた!?この冒頭からすでにビックリなんだけど、知らなかったのは自分だけ?
ゴータマ・ブッダ以前にも様々な宗教があり、ゴータマ・ブッダの教えは当初、いくつもある新興宗教の一つでしかなかったそうです。

ゴータマ・ブッダが入滅した後、彼以外は仏ではないという考えが広がり、やがてブッダという尊称はゴータマ・ブッダのみとなったそうです。
ゴータマ・ブッダの教えを含む伝統仏教(小乗仏教)は、概ね出家至上主義で、いわば自分自身が悟りを開くことが目的で、衆生を救済するものではなかった。悟りを得た者だけが仏になれる。
それに対して紀元前2世紀ごろに、衆生を救済しようとする大乗仏教が派生してくるわけです。

日本仏教は大乗仏教を引き継いだものですが、この経典に説かれている教えはゴーダマ・ブッダの教えだと、世間一般的に信じられているわけです。私もそう思ってました。
ところがどっこい、大乗経典は新しく創作されたもので、ゴーダマ・ブッダの教えとは異なるのだそうです。
大乗仏教では、志をもてば誰もが仏になれる。伝統仏教ではゴータマ・ブッダ以外、遠未来に弥勒が仏となるまで、世界に仏はいない。ゴータマ・ブッダ(過去)と弥勒(未来)の間(現在)は無仏の状態。これじゃあ民衆は救われないわけだ。

それに対して大乗仏教は、衆生は志しをもてば誰でもが救われる。出家して厳しい修行をしなくてもいいわけです。そして衆生を救済するために、無数の仏を駆り出した。大衆が希求するケースごとに仏をかき集めて割り当てていった、という感じ。
なるほどね、民衆にウケるわけだ。修行しなくても救済されるなら、そっちの方がいいよねぇ。

大乗仏教では仏のいる世界を「蓮華蔵世界」というのですが、この世界観が気宇壮大を通り越して、ア然と言うか、すごいんですよ発想が。ある種SF的。
蓮華蔵世界というのは巨大な千枚の蓮の葉で出来ていて、1枚の葉が一つの大きな世界に相当し、その中に普通の世界が100億個(!)あるのだそうです。
毘慮舎那仏(大日如来)は千人の釈迦(ゴーダマ・ブッダ)に化身し、千枚の葉一つ一つに住む。その一人一人の釈迦がさらに100億人の釈迦に化身して(細胞分裂か?)、それぞれ菩提樹の下で教えを説いているのだと。
どんな世界やねん!?不謹慎だろうけど、あきれつつも笑っちゃいました。

要は大乗仏教はゴータマ・ブッダを、上位の仏の一人として取り込んでしまった。ゴータマ・ブッダを否定してはいないんですよね。
ただ大乗仏教の毘慮舎那仏の方が、ゴータマ・ブッダよりも上だということ。大乗仏教の方が、伝統仏教より優れている、という意味。

後半はゴータマ・ブッダの誕生から出家、入滅まで。修行の過程やその思想、戒律についてなど、一宗教として確立するまでの動きが書かれています。
突飛な面ばかり強調してしまいましたが、ゴータマ・ブッダの教えと大乗仏教のアウトラインがよくわかりました。(2009/11/4)

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仏教を知ること

初めてコメさせていただきます。

以前、ある浄土真宗のお坊さんが「人間、最後は宗教しかないんですよ」と言っていたのが印象的で、仏教についていろいろと調べていたのですが、知っているようで知らなかったことばかりで驚きの連続!
昨年、上野で行われていた法然・親鸞展なども見に行き、仏教の世界もさまざまな解釈によって時代時代に息づいてきたのだな~と感心させられるばかりでした。
ブッダの教えもその時代に合うように、よく言えば役立てられ、悪く言えば捻じ曲げられ、現代にまで伝わった。ひとつの解釈に偏ることなく、私たちはまずその歴史を学ぶ必要があるのでしょうね。

ぜひ、この本も読んでみようと思いました!

No title

★櫻井ネロさん

はじめまして。
仏教って、なんとなくわかっているつもりになっているのだれど、実は知らないことばかりでした。
この文庫は、初心者の私にはとてもわかりやすく、いろいろ知ることができました。

櫻井さんの言われるように、時代時代によって様々な宗派が現れ、時代に合わせて変化しているのだろうと思います。
そう考えると、これからも変化していくのかもしれませんね。

上座部といいます

小乗(ヒーナヤーナ)仏教は大乗仏教側からの卑称なので、今は上座部(テラヴァーダ)仏教というのが普通です。タイやスリランカでは今でもテラヴァーダ仏教が盛んなのはご存じの通り。またそのような部派に分かれる前の原初的な姿を原始仏教と言ったりもします。上座部仏教の経典では、例えば「感興の言葉」(ウダーナヴァルガ)というものがあります。震災から1年経った3.11に読み返して心に残った部分を紹介しましょう。

朝(あした)には多くの人々を見かけるが、夕(ゆうべ)にはある人々の姿が見られない。夕には多くの人々を見かけるが、朝にはある人々の姿が見られない。
私は若い、と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が自分の生命を当てにしてよいだろうか?若い人でも死んでいくのだ。男でも、女でも、次から次へと。
ある者どもは母胎の中で滅びてしまう。ある者どもは産婦の家で死んでしまう。またある者どもは這い回っているうちに、ある者どもは駆け回っているうちに死んでしまう。
老いた人々も若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。熟した果実が枝から落ちていくように。
熟した果実がいつも落ちる恐れがあるように、生まれた人はいつでも死ぬ恐れがある。
陶工の作った土器のように、人の命もついには破れてしまう。
糸を繰って広げて、如何なる織物を織りなそうとも、織る材料が残り僅かになってしまうように、人の命も同様である。
死刑囚が一歩一歩と歩んでいって、刑場に赴くように、人の命も同様である。
山から発する川が流れ去って還らないように、人間の寿命も過ぎ去って、還らない。
私には子がいる、私には財がある、と思って愚かな者は悩む。しかし既に自分が自分のものでは無い。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
雨期にはここに住もう、冬と夏にはここに住もう、と愚者はこのようにくよくよと慮(おもんばか)って、死が迫ってくるのに気がつかない。
子供や家畜のことに気を奪われて心が執着している人を、死は捉えて攫っていく。眠っている村を大洪水が押し流すように。
子も救うことが出来ない。父も親類もまた救うことが出来ない。死に襲われたものにとっては、彼らも救済者とはならない。
私はこれを成し遂げた。これをしたならばこれをしなければならないであろう、と言うふうに、あくせくしている人々を、老いと死とが粉砕する。
昼夜は過ぎ行き、生命は損なわれ、人の寿命は尽きる。小川の水のように。

No title

★KOH
上座部仏教、それは知らなかったよ。タイの仏教は、うん、そうだろうね。

人の命は還らない。どのような人であっても。だからこそ、どう生きるのか。古来からの命題だよね。
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