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ペドロ・パラモ/フアン・ルルフォ

ペドロ・パラモ
フアン・ルルフォ

My評価★★★★★

訳:杉山晃・増田義郎
岩波文庫(1992年10月)
ISBN4-00-327911-5 【Amazon
原題:Pedro Páramo(1955)


フアン・ブレシアドは母親の遺言で、名前だけしか知らない父ペドロ・パラモに会うため、コマラへ向かっていた。途中でアブンディオという男に出会い、彼に道案内をしてもらう。別れ際アブンディオは、自分もペドロ・パラモの息子だが、ペドロ・パラモはとっくに死んでいると言う。

フアン・ブレシアドはコマラへ着き、アブンディオに教えられたエドゥビヘス・ディアダの家に泊めてもらう。エドゥビヘスは亡き母親ドロリータスの親友だった。
コマラでは、かつてこの町に住んでいた人々の木霊が聞こえ、幽霊が生者のように徘徊していた。ペドロ・パラモの息子ミゲル・パラモ、人を裁くことに悩むレンテリア神父、ペドロ・パラモの執事フルゴル、ペドロ・パラモの女房スサナ・サン・フアン、ペドロ・パラモなどなど・・・。フアン・ブレシアドはいまは亡き人々のささめきを聞く。

ペドロ・パラモは策略と、ときには暴力も惜しまず一帯を支配する大地主となる。そして何人もの女たちを手に入れてきた。だが息子ミゲルが亡くなり、ペドロ・パラモの人生に翳りが射し始める。

********************

メキシコの作家でフアン・ルルフォ(Juan Rulfo,1917-1986)による、70の断章から成る小説。ラテン・アメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作と言われる。ラテン・アメリカものを読む場合、この作品は外せないのではなかろうか。
幽霊が出てくるからと言ってオカルトだとか、不気味だとかナンセンスという作品ではない。コマラの大地にかつて住んでいた人々。彼らは死者となったいまも、生きている当時と同じように生活している。地中の死者たちは、生きていた当時のことをつぶやき続ける。

断片的で、一見すると前後の章の繋がりがないように思われる箇所もあるが、実はすべてが関わりあっている。過去と現在が交錯し、コマラという空間に凝縮された見事な円環の構造。フアン・ブレシアドもそのなかに取り込まれる。
始めはフアン・ブレシアドを中心にして展開するが、やがてペドロ・パラモと彼の周辺の人々によって物語は進んでゆく。死者たちによってコマラの大地、住人たちの生活、彼らの生きた時間が語られる。語りから彼らの生きた時間へと移行する。そうして現在から過去、過去から現在のコマラが浮かび上がる。

母親が語ってくれた豊かで美しいコマラ。だがフアン・ブレシアドが訪れたコマラは、草木一本生えない無人の土地であった。作者は死者たちによって、コマラの大地が失われてゆく様を描き出そうとしているのではないだろうか。穿った読み方をすれば、ペドロ・パラモはメキシコ的な思想・慣習の象徴で、コマラで生活を営む人々の起動力そのものではないだろうか。
訳者によるとペドロは「石」、パラモは「荒れ地」を意味するという。スサナは母なる大地であり、その大地が病んで凋落してゆく象徴と考えられないか。この作品で描き出されるコマラのビジョンは、カラカラに乾いて草木一本ないひび割れた大地。その大地と生をともにし、大地に沁み込んだ人々と彼らの思念。
失われた大地と時間。大地も人々も「不毛」の一言に尽きる。不毛なのだが広大さと叙情性があり、なぜか人間臭さを感じさせる。
とても読みやすいのでつい読み落としてしまいそうになったが、様々な断片には幾通りにも解釈できるエピソードが包含されている。荒涼とした大地のイメージや読みやすさとは裏腹に奥深い世界だ。(2002/3/10)

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